女優・山田五十鈴        2022年12月 神保町シアターにて 

 全くリアルタイムの備忘録ではなく、忘れえぬ印象記録と化しているけれど、観た時に胸に迫ってくる感動が、映画によっては何年もずっと消えず、映画館で観直す度に心が揺さぶられるのって、やっぱり凄くて(心身、脳みそにもきてる)。

 鶴八鶴次郎(成瀬巳喜男監督。1936年。川口松太郎原作)を観たのは、20年くらい前のパリの名画座。それから成瀬巳喜男の虜になったけれど、何の知識もない時に観た、山田五十鈴と長谷川一夫にがっつりやられて。時代背景も細かく描かれた上の、あの2人が演じて、山田五十鈴は小さい時にテレビでチラッと見た、芸道一筋年季の入ったベテラン女優さんの印象で、長谷川一夫は、流し目という意味もまだわからないまま、流し目が有名だとインプットされた、名前しか聞いたことがなかった有名な人。新内語りと三味線弾きの芸道もの、その世界は全く知らないけれど、映画で描かれた世界に、その役柄にしか見えない2人の存在感に圧倒。映画館で見るのも大きいと思うけれど、昔の映画は衝撃が大きすぎて、ずっと体の奥底に残って何かを支えてくれている。鶴八鶴次郎も、映画館へ行ってまた観たくなる一本。周知の事実、有無を言わさず、山田五十鈴と長谷川一夫の素晴らしさがよくわかる一本。成瀬巳喜男にもやられっぱなし。

 祇園の姉妹(監督・原作溝口建二。1936年)も観たかった一本。孤高溝口。これが溝口か、、と、溝口も20年くらい前のパリの名画座で洗練を受けて、溝口の幾つかの作品は何回でも観に行ったし観に行きたい。そして画面の中にはまだ19歳という、10代20代始めはあんな風にメリハリというよりも少女らしさが僅かに残り、細いけれど女性になっていく体の線も初々しい山田五十鈴がいて、山田五十鈴がもちろん上手いのに加えて、当時の京都祇園の芸妓の様子も街や家の中の描き方も白黒、カメラのロングショットで、もうタイムスリップした夢の中へ。溝口か〜。同年の、浪速悲歌(監督・原作溝口建二。1936年)でも、当時の働く女性達の姿を知れて、失意の中でも逞しく生きていく女性を演じた山田五十鈴の凄みに圧倒。

 そして極め付けは、流れる(監督:成瀬巳喜男。原作:幸田文。1956年)。成瀬巳喜男の大傑作!!もう映画館で何度観たことか。パリの名画座では繰り返し繰り返し上映されていた(いる?)。上映される度に観に行って、成瀬もパリで知って。今まで5、6回観たうち、奥屋の女主人の山田五十鈴が、一度袖にした男の人に、姉さん的存在の栗島すみ子にお願いして仲を取り持ってもらうように頼む場面で、私の思い違いがなければ、ひとつのバージョンはその男性と一晩を共にした描写で、もうひとつのバージョンは、その男性に会わず終いが描かれている、2パターンあるような記憶があって!?何回目かを観た時に、あれーと思った印象あり。記憶違いか!?そんなことってあるかな、記憶は怪しいけれど、曖昧な違和感を感じつつも、豪華な女優陣に、何度観てもうなされる。高峰秀子の勝気な娘役もバッチリ。当時流行ったのか、ウエストでキュッと締めるふんわりスカートと半袖がわずかにあるノースリーブ風のワンピース。高峰秀子の胸元も豊かそうに見える仕立てで、筋トレとかしてそうにない二の腕が色っぽい。岡田茉莉子のおきゃんな美しさと、何度でも見たい杉村春子! 電話口で三味線の音を山田五十鈴にチントンテンと確かめる場面が好きで、あの場面が忘れられない。田中絹代の存在も幸田文を少しは知っているとうなずける人物像でいい。山田五十鈴は白黒でも顔色が悪く見えて、気丈の中に苦労しましたと見える様子や、反対に普通の女の人にはない芸者、プロの大人の女の顔になり、艶のあるそれはそれは美しい顔立ちと振る舞いにも引き込まれて、、。

全てがは成瀬巳喜男の描く女性たち、どこかダメ女だけれど逞しい、の凄み。観た後すぐに、また観に行きたい!と忘れられない映画のひとつ。


この記事が参加している募集

#映画感想文

67,333件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?