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memorandumに書かれた見えないものとの闘い

私の心の図書、Dumb Typeのmemorandum。これは80年代に結成されたパフォーマンスグループで次回のベネチアビエンナーレの出品作家である。コロナショックで世界中が試されているさなか、私がこの本を紹介したいと思ったのは、作者が生きた時代と今がとても似ていて、ヒントになるかもしれないと思ったからだ。彼らがセミナーショーとしてS/Nという舞台で観客に提示してきたLOVEというテーマには深い意味がある。

Dumb Typeの代表であった古橋悌二さんはゲイのドラァグクイーン、そしてエイズ感染者だった。

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古橋悌二(1960-1995)

80年代に流行したエイズはsexすることによってひろまっていったので、人が人を愛する危険性を世界中が感じ、その中でもゲイセクシャルやパートナーを何人も持つ人、フリーセックスをする人が病原菌のように扱われた。Dum typeのS/Nという作品では、愛しているからこそ、パートナーとつながりあわない必要性があると何度も訴えかけてくる。古橋悌二さんを愛した女性がいて、その女性は彼に「あなたの子供を産みたい」と言ったそうだが、もちろん彼は彼女に「ありがとう、でもあなたを抱くことはできないの」と返事をしたそうだ。その後2人で涙を流しあったと言う。ちなみにDumbとは間抜けとか口がきけないといった意味で、ヒエラルキーとかサイエンスが嫌いだからという理由でつけたらしい。

リトルモア社から出版されているmemorandumの中に「芸術は可能か?」という章がある。この章でも書かれていることだが、アーティストの私たちにとったらとても古臭い言葉で、バカにした笑いさへしてしまいかねないが、今のコロナショックのさなか、通り過ぎることができなかった章である。一部抜粋する。

「このシリーズは何故か何もかも可能にみえた80年代の反動として行われているように一見感じられるであろうが、実はもっと個人的な動機から始められた。自他共に80年代的と認める「p/H」のパフォーマンス/インスタレーションシリーズ以降、ダムタイプは90年代的な問題の立て方がわからないまま90年代を迎えてしまっていた。

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p/H  制作1992年

たぶん頭を抱えているのはダムタイプだけではなく、世界中のアーティストが同じような状況にいると感じる。欧米での活動に際に出会うアーティスト達との会話からは、明らかに誰もが”自分はどんな芸術を目指したいか”ではなく”自分が芸術を通して何が出来るか”という目的意識を見出そうとしているのがわかる。それは戦争や世界史の転回、そして最も身近な問題としてエイズ禍に見舞われるに到って、アーティストである以前の自己のあまりの不安定さに半ば強制的に立ち返ることを命ぜられたようなこの数年の悩みが、我々を変えたと言ってもいい。」

「”芸術は可能か”という問いはここでは20数年前の、或いはさらに過去のそれとは違い、目に見えぬ敵の前でさらに絶望的に響く。だって科学も政治も可能じゃないってわかっちゃったんだもの、”芸術は可能だ”といいきるにはかなり分が悪い。が、我々は”芸術が不可能でとっても哀しい”ってただ肩を寄せ合って泣いているだけなのか?」

コロナで見えない敵のまえに人がどんどん死んでいく。エイズ禍と同じく、今のところ政治と科学では今のところ太刀打ちができていない。ウイルスとの闘いをなんども繰り返してきた人類ですもの!今回も大丈夫よ!とウイルスに関しては高を括るこもできるかもしれないが、すでに何万人も死者を出し、経済の低迷と失業者によってアフターコロナの世界は一変する可能性も高い。人は何を悪者にするだろう?やっぱり中国、安倍首相小池知事なのか?その時悪者を立てれるくらい元気があればいいのだが。

芸術は可能か?

この問いは人との接触をさけ、引きこもる毎日の私に突き刺さってくる。でも可能と言いたいね。可能じゃなければ毎日絵なんてかく意味がないしねー。

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