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《ドMの晩酌:第20夜》 ぜんぜん可愛そうじゃない

とっとと寝てほしい

あと1週間で息子たちの夏休みが終わる。

休みが始まってからというもの、すっかり狂ってしまった我々の体内時計。これを残された日数でどうにかして戻していかなければならないことが、私にとって一番大変なシゴトだ。

夜更かしというものに想像以上のワクワク感を抱いている彼らに「そろそろ学校が始まるから早く寝ておきなさい」と繰り返し言うことになるだろう。

まず、継続が苦手な私にとって、これにはかなりの根気が必要だ。そして、私の声かけに生返事ばかり返ってくることが容易に想像され、忍耐力も必須となる。

普通に言っても寝ない。試しに怒鳴ってみても、もちろん寝ない。

無理やり寝室に追いやるものの、延々と続く奴等のヒソヒソ話。


しかし、私にはわかっている。「やはり成長期は早めの就寝、そして規則正しい生活リズムが大事でしょ」なんていうのは、母親という仮面を被ったノリコの想いであって、彼らにとっとと寝てもらいたい真の理由は「ひとり晩酌タイムが短くなってしまう」ことを、何がなんでも避けたいからだ。

息子たちが起きていても、もちろん晩酌はできるけれど、彼らが寝入った静かな家で、お気に入りのツマミを用意し、ビールをプシュッと開ける。あの感じが私にとっては何にも代え難い貴重な時間なのだ。

「ノリコ、お疲れ。今日もいろんなことがあったね。さぁ、ひとつずつ思い出して反省会でもしようか」

と、キンキンに冷えたビールが私にささやく。

「うん、わかった」と従順なノリコは、自分の非を認めたくないが故にとっさにとった言動を省みては、自分の器の小ささに悶絶する。

しかし、ビール3缶を飲み干す頃には、「いやー、今日も自分のしょうもなさにウケたわー。今度友達に話そっと。」と、むしろネタができたことに満足し、のび太と同じくらいのスピードで眠りにつく。

息子たちを必死に追いやってまで、やる必要があるんか、この毎晩のイベント。

「ポン」ってなによ。

さて、今日の晩酌もキンッキンに冷えたアサヒスタイルフリー。それを、ぬるくならないように缶専用のマグにスポッとはめる。つまみは茹でた鶏のササミをほぐし、きゅうりや大葉の千切りと一緒にポン酢で和えたもの。

うーん、サイコー。
ポン酢を考えた人は天才よね。
ところで「ポン」ってなんなのよ。

と、軽くググってみるとポンカンなどの柑橘系の「ポン」から付いた説と、オランダ語の「ポンス pons(柑橘系の果汁を表した言葉)」から付いた説があるらしい。じゃあ、ポンカンやデコポンの「ポン」は「ポンス pons」が由来じゃないの? そして「ポン」が既に酸っぱいのに、なぜに「酢」という字も入るのか。

えーい、やめだ!やめだ!
ビール様が本日の反省会をさっさと始めろと睨んでおられる。

やっと息子たちのヒソヒソ話も終わったな。
寝ろ寝ろと無理やり追っ払った風で悪かったかな。

でも、明日は次男をプールに連れていくと約束したし、旅行には連れて行けなかったけれど、今年の夏も彼らは一時も暇を持て余すことなく常に何かしらで遊びまくっていたし、それなりに楽しい夏休みだと思ってくれているといいな。

私が子供の頃は、両親も共働きだったし、兄とも年齢が離れていたし、せがんで海水浴に連れて行ってもらう以外は、暇で寂しい夏休みだった気がする。

あー、ちがうわ。

夏休みのおよそ半分の期間を、私は母方の本家で過ごしていたんだった。

忘れていた記憶を取り戻す中で、妙なザワザワ感が私を襲う。

両親に構ってもらえない怒りや悲しみを、私は、とんでもないやり方で発散していたのだった。

やばい、これは正気でいられない。
まぁ飲もう。

簡単に改ざんできてしまう記憶

私が小学校に通っていた間、夏休みに入るとすぐに母方の本家に長期で遊びに行っていた。自宅がある千歳から特急に乗ること5時間。道東の田舎町で、そこには祖母と伯父夫婦、既に成人している従兄がおり、彼らは酪農で生計を立てていた。

私の両親がお盆に迎えに来るまで滞在していたはずだから、つまりは毎夏2週間程、私はそこで過ごしていたことになる。遊びに行っていたというよりも、私の両親が頼んで預けていたのかもしれない。

祖母はかなりの高齢で、孫の私が遊びに来ても「ノリコの母さんは元気にやっているかい」「ノリコの父さんと母さんはケンカしてないかい」と滞在中に何度も問われるくらいしかコミュニケーションがなかったため、私は「お婆ちゃん子」にはなりきれなかった。

よく考えると、父方、母方、両方において私は一番下の孫だったし、上には既に社会人になっているような従兄弟もたくさんいて、祖母からすれば一番印象の薄い存在だったのかもしれない。

伯父たちは朝早くから日が暮れるまで牛の世話や畑に忙しく、近隣に住む従兄弟たちは年齢が離れているため、私に終始付き合ってくれるような人は誰もいない。

伯父宅の周辺にはだだっぴろい畑が広がり、遠くに隣家がポツリポツリと見える。聞こえるのは虫の声と牛の鳴き声だけ。


ああ、私って自分の家にいても、伯父宅にいても、ひとりぼっちの寂しい時間が多かったよな。


そう、センチメンタルな思い出としてさらに上書きしようとしたけれど・・・。

いやいや違う。
ぜんぜん違う。
それじゃ記憶を改ざんし過ぎですよ。

実のところ、毎夏、ノリコは寂しいどころか、この伯父宅で好き放題やっていたのだ。

クソガキノリコ

大自然の中、ノリコは自由を満喫していた。当時夢中で観ていた戦隊モノ「デンジマン」のデンジピンクになりきり、その辺に落ちている小枝を武器に「ヤーッ!」「ターッ!」とデカイ声を張り上げ、雑草を敵とみなして奮闘する。兄や近所の人に笑われる可能性が高いため、自宅で必死に封印していた遊びに全力投球だ。

そして、ひとまわり以上も離れた従兄の部屋に勝手に侵入し、グラビア雑誌の付録だった大場久美子のシールを彼の部屋中に貼りまくる。ついでに襖の障子に穴を開けまくる。これは彼に怒られることをあえて狙ってのイタズラだった。

「こら!ノリコ!」とちょっとくらいかまってもらいたかったのだ。

夜は、来客用の三つ折りマットレスを押入れから引っ張り出し、それを立てて要塞を築く。1日の労働を終えて晩酌をしている伯父や従兄に攻めてきてもらいたくて、要塞の中から一生懸命にちょっかいをかけるノリコ。

やれやれと重い腰を上げ、彼らが要塞を壊しに来ると、大興奮状態のノリコ。

こんなことを滞在中、ひっきりなしにやっていた。

自分のクソガキすぎる振る舞いに、ビールが止まらない。

伯父宅での私の寝る場所は、祖父の仏壇が置かれている和室だった。仏壇に置かれているマッチに興味をそそられ、無駄に何本も線香に火をつけたり、お盆に飾られる提灯を深夜に灯しては「わー!プラネリウムみたい!」と大喜び。

あの世で祖父は、一度も会ったことのないクソガキ同然の孫をどんな気持ちで眺めていたのであろうか。

そして、誰もが忙しく働いている日中において、私の遊び相手は牛たちだった。

牛舎にいる牛たちは鉄の輪のようなもので繋がれており、その場に立つか横たわるか程度の動きしかとれない。

それに安心し切っている私は舎内の通路を歩き回る。すると頭を振り回したり、後ろ足を蹴りあげたり「クソガキ、あっちに行けよ」と言っているかのようだった。

体もデカいし横目で睨まれている気がして、正直怖い。
でも、その怖い感じがたまらなく楽しい。

間に放牧地に侵入しては、牛たちにそーっと接近しようと試みる。

多くの牛は横目でちらりと見る程度の反応だが、時折1~2頭がこちらに向かって力強く歩み寄ってくる。「キャー!やられるー!」 待ってましたと言わんばかりに、クソガキノリコは興奮し柵のほうにダッシュで避難する。

そして、毎度、牛の脱柵防止の微弱な電気が流れる鉄線に触れ、ビリリとやられていた。おいノリコ、牛たちが迷惑してるぞ。


極めつけは「ばーちゃん! ばーちゃん!」と何十回も祖母を呼ぶ声をラジカセで録音し、それを納屋に設置しフルボリュームで再生した。

この再生音に騙されて祖母が家から出てくる様子を、笑いをこらえながら物陰から観察するという遊びだ。

予想通り、祖母は何度も「なーにー?」と出てきては、辺りを見回し首を傾げては家に戻って行った。

うー、これだけじゃないな。
でも、もう書き切れない。

おい、ノリコ。
オマエめっちゃクソガキじゃん。
やりたい放題じゃん。

私が欲しかったもの

これをお読みの方々は、きっと私がいつでもクソガキだったと思うかもしれないけれど、それは違う。

自宅で過ごす私は、常にケンカ祭りの両親の顔色を伺い、どうしたらバランスが取れるのかを幼い頭で考え、実践している子供だった。
放課後から両親が帰宅するまでの短い時間を除き、常に緊張状態だったように思う。

この溜まりに溜まった1年分のガス抜きを、毎夏、私は伯父宅で発散させてもらっていたんだろうな。

しかも、こんなにもクソガキだったのに、伯父たちは私を叱ることが無かった。目に余る私の行動に寛容でいようと配慮してくれていたというよりは、細かいことを気にしない人たちだったように思う。


適度に構ってもらい、適度に放置してほしい。

これが当時の私が本当に欲しかったもので、それを伯父たちは意図せず存分に与えてくれた。伯父たちの家族の中でもそれなりに諍いはあったが、私が立ち入ることのできる問題でもないという無責任でいられる開放感も、これまた心地がよかった。責任を持つことは、ある意味、仮面をかぶることと同義だからだ。


そして、自然を遊び相手にし、農作物や牛を育てる体験をさせてもらえたことは、言葉にできないほどの財産になっている。

人間同士の調和を保つ一員として過度に働きかけることなく、大自然や生き物を相手に遊び、時には手酷い学びを得る。

んー、最高だ。

私は、自分の息子たちにそのような体験を十分にさせてあげることができなかったけれど、自分が享受したことを何かで息子たちに、そして社会に還元したいな。そう思った今宵の晩酌でした。


最後に。

ばーちゃん、ごめんね。

私はぜんぜん可愛そうな子じゃなかった。

今夜を境に、私はやりたいようにやれた子供時代がたっぷりあったのだと、しっかりノリコメモリーに保存いたしました。

(イラスト:まつばら あや)

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