《ドMの晩酌:第十夜》 海水浴には瓜だけ持って
「あの感じ」を味わいたい
うー、朝晩冷える。この季節に入ると、手肌の乾燥だけでなく足の冷えが気になる。何をしていても「足が冷たい」という意識が頭の片隅にある。
時間がある時は、桶にお湯を張り足湯に入ることもあるが、息子たちが目を輝かせ「わーい!足湯だ!ボクも入る!」と、靴下の毛玉のついた足を突っ込んできて、みるみるお湯の表面が汚れ温度が下がっていく。
足を真っ赤にしてご満悦になった息子たちが去った後、彼らが床にはねちらかした水滴を拭き、再び熱いお湯を注ぎ、やっと私の足はお湯の中で蘇る。
あー、極楽、極楽。
できることなら寒い季節だけ南の島で暮らしたい。そして、海でスノーケリングしまくりたい。
私はあまり泳げない。
正確に言うと、クロールの息継ぎができない。
平泳ぎは蹴っても前に進まない。
背泳ぎならできると言いたいところだが、隣のレーンで泳ぐ人の水しぶきが顔にかかるとパニックになるので、やはりできないと言っておいた方が無難だろう。
でも、水の中で泳ぎっぽいことをするのは大好きだ。要は、呼吸さえしっかり確保されているなら、いつまでも泳ぎたいということだ。
私は北海道千歳市出身で、当時は自分の通う小学校にプールが無かった。だから近隣の小学校のプールを借りて授業をせざるをえない上に、回数も年2〜3回しかなく、私にとっては単なる水遊びイベントとしか受け取れなかった。
あれで泳げるようになった人なんていたのかな。
それなのに、高学年になると水泳のテストを実施していただなんて、先生たちはどういうつもりだったのだろう。
私は脚力には自信があったので、25メートルプールを息継ぎなしのクロールで突き進み、途中で1回、犬かきモードにチェンジ。そこで死にそうな顔で息を吸い、残りを再び息継ぎなしクロールで泳ぎ切るという手段しか取れなかった。
逆に、冬は校庭がスケートリンクと化すため、あのクソ寒い中、ほぼ毎日のようにスピードスケートをやらされた。スケート靴が足にフィットするよう靴紐をギューギューに絞るので、超絶足が冷えた。
北海道の海水浴シーズンは非常に短い。
だいたいお盆前の一週間くらいがそれにあたり、運悪く台風なんかが来てしまうと「今年は海水浴行けなかったね」なんてこともある。
そんなこんなで泳ぎとは縁遠い人生を送っていたが、大学時代にバイト先のお客さんに誘われて、私はスキューバダイビングを始めることになった。
ちなみに北海道ではウェットスーツはほとんど着用しない。海水の温度が低いからだ。代わりに着るのは「ドライスーツ」というもので、簡単に言うと全身ゴム長みたいなやつ。水中でも中に着ている服は濡れない(たまに首とか手首から海水が侵入するが)仕様になっており、ウェットスーツと比べると高価だ。
ライセンスを取得するまで道具は全てレンタルしていたが、その金額も馬鹿にできなくなり、ドライスーツやらレギュレーターやら勢いで一式揃えることにした。せっかく買ったのだからと、ショップで企画する日帰りツアーに頻繁に参加していたが、学生のバイト代で賄うのは楽なことでは無かった。
ダイビングスポットまでガイドの車で移動するのだが、参加者は多数いるため、長い移動時間、なんとなく周りの人たちに同調していくハメになる。海の中でも、当然群れからはぐれないようにしなければならない。
そのショップの常連さんは30〜40代独身の人が多く、ダイビング後の打ち上げの方を楽しみにしていたフシがあり、なかなか馴染めなかった。そして私は魚などにも興味が無かった。
じゃあなんでダイビングやっていたんだよ!と、自分にツッコミを入れたいところだが、その答えは私がドMだから、ではなくて、潮の流れが穏やかな時にガイドから許可される、ほんの数分間の自由時間に、海底を背にして、日の当たる水面を眺めながらフィンを力強く動かし、全身で水の力を感じている瞬間がたまらなく好きだったのだ。
その後、社会人になってから海外や沖縄なんかで気軽にスノーケリングできることに気づき、「なんだ、このやり方のほうが気楽じゃん。」てことで、手がふやけ唇が紫色になるか、頻繁に足がつるまで「あの感じ」を堪能した。
息子たちが生まれてからとんとご無沙汰状態だが、またいつか「あの感じ」を味わいたいな。
さて、足も温まったところで、晩酌でもしよう。
我が家のレジャー
今日の晩酌もキンッキンに冷えたアサヒスタイルフリー。それを、ぬるくならないように缶専用のマグにスポッとはめる。つまみは「あたりめ」にしよう。
マヨネーズに七味(一味でもいいけど)と、ちょっとだけ醤油をたらす。
私が子供の頃はこれを「スルメ」と呼んでいた。
実家の灯油ストーブの上にスルメを乗せると、ウニュウニュとうねりながら身が縮まっていく。アチチと言いながら熱いうちにスルメを細く割いていく、あの工程が楽しかったし、美味しかったよな。
東京に来たばかりの頃は「あたりめ」ってなんだろうと思っていた私が、今はサラリと「あたりめ」なんて呼んでしまっているところに時の経過を感じ、ちょっと寂しい気持ちになる。
よく考えてみたら、北海道より東京で暮らした時間の方が長くなっちゃったなー、なんてぼんやり考えていたら、遠い昔、父と行った海水浴のことを思い出した。
私が小学校に入る前だから、きっと5、6歳くらいだろう。
*******
その海水浴は本当は家族全員で行く予定だった。
当日の朝を迎え、私はウキウキしながら寝室から茶の間に行くと、とても家族でレジャーに行くとは思えないような重苦しい雰囲気が漂っていた。
ヤバイ、またこのパターンだ。
私は慣れっこだったから、瞬時に何が起きているのかを察知した。
きっとまた、お金のことで両親が言い争っていたのだろう。
台所の方を向いている母親の背中から、めちゃくちゃに強い怒りを感じる。
これは、そばに寄ると危険なやつだ。
テーブルの上にお弁当的なものも無いし、これは海水浴中止だな。
残念だけど諦めよう。
すると、父が物置からクーラーボックスを出して車のトランクに積んでいる。
そっと父のそばに行き「海行くの?行かないよね?」と尋ねると、「海水浴に行くから水着とかバスタオルを持っておいで。お兄ちゃんにもそう言って」と父は答えた。
母は来ないことが私にはわかっていたから、兄と2人で支度をして父の車に乗った。
父の車に乗せてもらえるのは久しぶりだ。
なぜなら当時、父は長距離トラックの運転手をしていて家にはあまりいなかったからだ。私は母が座っているはずの助手席に陣取ることができて新鮮な気分だった。
兄は後部座席で窓を開け、外気を必死に吸っている。
彼は遠出の時には必ず車酔いをして吐いてしまう人だ。
この日も行く途中でしっかり嘔吐したが、父に停車するよう頼む余裕がなかったのか、車が走る中、いきなり窓を開け用を足し、ドアが汚れてしまった。
それによって、母とのことで不機嫌だった父の顔がさらに曇る。
海水浴場に到着すると、私は嬉々として海で遊んだ。兄は何をしていたのか記憶にないが、恐らく私とは別に遊んでいたと思われる。
父はずっとレジャーシートの上に座っている。
九州出身の父は眉が太く彫りが深い顔立ちで、強い日差しを浴びているせいか、遠目から見ると眉から下が真っ黒で全然表情がわからない。
北斗の拳のケンシロウが静かに怒っている時の、あの感じだ。
しかし、父が全く楽しんでいないことは確実で、この海水浴場では異質な存在だったはずだ。
昼食の時間になり、父に呼ばれた兄と私は驚いた。なんとクーラーボックスの中には瓜が数個入っていただけだったからだ。
北海道はメロンの産地として有名で、すでに美味しいメロンの味を知っていた私たちにとって瓜は喜ばしい食べ物ではなかったが、全てを察して黙って食べた。
父は幼い頃から台所に立っていたため包丁を扱うのが上手かった。
手早く皮をむき、掌をまな板がわりに瓜を切り、包丁の先端でサササッと種を除く。その無駄のない手つきを見ることが私は好きだった。
でも、瓜を食べたかったわけではないけれど。
その後、再び海で遊び始めた私だったが、ふつふつと怒りの感情が沸き危険な行動に出た。なんと私は、ビーチボールにつかまり遊泳ラインを示すブイ目指してバタ足で泳ぎ始めたのだ。
浮き輪がなぜなかったのか記憶にないが、当時の私でも「これは危険かもしれないな」と頭ではわかっていた。
でも、この行動を止められなかった。
私はビーチボールにしがみつきながら、途中、何度も砂浜で憮然とした表情の父を見る。
お父さん、どうして笑ってくれないの。
お父さんに悪口を言うあの人もいないよ。
あの人がお金を持たせてくれなかっただけでしょ。
お昼ごはんを買えなくても、私はうれしいんだよ。
お父さんとずっといっしょにいられるんだもん。
ひさしぶりの海だもん。
お父さん、そんなにかなしい顔をしないで。
このままじゃ、わたし、おぼれちゃうよ。
お父さん、はやく助けにきて。
しばらくして、かなり沖の方にいる私に気づいた父は、すごいスピードで泳いでやってきて、私を砂浜まで連れ戻してくれた。
父の幸せ、娘の幸せ
もし、今の自分があの時の父の立場だったら、それはそれは情けない気持ちなるだろうと思う。頻繁に夫婦喧嘩を繰り返し、たまのレジャーも家族全員で行けず、食事も満足に与えられない。なのに子供はキャッキャと遊んでいるだなんて、なんちゅうギャップだ。
イタすぎて逆に笑える。
しかも瓜だけって、他に何かなかったんか。
母さんもそこは冷静になって、食事代くらい持たせたらどうだ。
*******
父の幸せと、私の幸せは重ならない。
悲しいけれど、そのことに私は幼い頃から気がついていた。
あの海水浴の時、私は幸せだったのに。
私が離婚したことも、自分にとっては幸せだと思える選択だったのに。
私は、父が彼自身の人生に何を求めていたのを幼い頃から知っていたから、父が欲しかったものを、父の代わりに自分の人生に何度も取り入れてきた。
父を幸せにしたかったから。でも、父が私のことを親戚や知人に嬉しそうに話せば話すほど、私は悲しかった。
だって、全然幸せじゃなかったから。
私は今、父がどんなに悲観していたとしても、私を生きようと必死になっている。
そして、私と息子たち両方が幸せになれるかどうかの実験をしている最中だ。
この実験の機会を与えてくれたのは、他ならぬ父と母。
このことを両親はどう感じるかはわからないけれど、心から感謝して、そして父と母の幸せを祈って、今夜の晩酌を終えようと思う。
(イラスト:まつばら あや)
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