宗教とはなんだろう?
最近、話題の「宗教」を考えてみた。
【聖書のことば】
●マタイによる福音書、10:34~10:37。 10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。 10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。 10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
【広辞苑には】
日本語の辞書ではおそらく一番、と言われる「広辞苑」を引くと、「宗教」の説明には「なにかを前提として振る舞うこと」とある。それが神であろうがなんであろうが、あることを前提として、自分の行動を決めること、ということだ。「心」はその「始まり」から「行動」の中間にあるものとしてすっ飛ばされている感じの解説だが、たしかに、なにかを信じている、ということは、その人の外側から見ればそういう言い方になる。AさんがBさんのこころの中を直接覗く、ということができない以上、AさんはBさんの行動や発言を見て、その人が何を基準にモノを考えて行動しているかを想像するしかないからだ。
【「宗教は阿片である」】
一方、社会主義・共産主義の「元祖」と言われることも多いカール・マルクスの著書「ヘーゲル法哲学批判序論」には「宗教は、逆境に悩める者のため息である。……それは民衆の阿片である(多くの日本語訳が同じような内容になっている)」とある。マルクス以前から、似たような宗教に対する表現はいくつかあったらしいのだが、要するに「阿片」という麻薬と一緒にしていることからも分かる通り、宗教は一括りに「人に悪い影響を与えるもの」という、これは「宗教を批判する側」からの捉え方、ということになるのだろう、と思われる。
【とは言うものの】
うーん、といろいろ考えてしまうが、世界に広まったキリスト教でさえ、冒頭のような表現がある。要するに「神は絶対でありそれは家族・親族よりも尊いもの」とする、ということを言っている。それがすべての前提、ということだ。キリスト教における「愛」とは神への愛しかない。逆に言えば、宗教とは個人的なもの・かつ至高で、家族などは関係ない、という側面がどうしても出てくるのだろう。
【「宗教」と「教団」】
実際の世の中には、人は良く知られた宗教だけではなく、人知れず、自分だけが持つ宗教、というものを持っている人もいるだろうと思う(広辞苑の定義には同一の宗教を持つ人数の多寡のことは書かれていない)のだが、人の行動は「教団」という同じ宗教を持った人たちの集まりによって世の中を変えるほどの状況を作ることもある。とは言うものの、そういう人の集団を作るのは、宗教だけではない。「なんとか反対デモ」でも人が多く集まり、同じ行動をするし、企業は組織として企業が作る集団の利益(お金)のために動く。ということは、「宗教」と「教団」は「別のもの」として考えて置く必要がありそうだ。
【「宗教」を脳科学・心理学として語る】
宗教は、人間社会という自然の一部では大きな力を持った存在だったわけで、今もその影響は大きい。しかしながら宗教については、科学的で客観的な話がなかなか多くのフィールドでしにくい。それは「主観」の影響力が大きな領域とされてきたからだが、そろそろ、はやり「脳科学」とか「心理学」で宗教を解析する、という試みが当たり前に大きな意味を持つ時代になってきたのかもしれない、と最近は思う。
【「前提を疑え」というところに育った自分というもの】
結局、宗教というのは物事を捉えるときの「前提」である、という広辞苑の定義はおそらく正しい。しかし「科学」というのは「前提を疑う」ことから始まるために、宗教は「疑う対象」となり「宗教を疑う」こと自身が人間社会の「対立」を産むことになる。対立とはいかないまでも、明らかにそこには「齟齬」が生じる。結局のところ人間は「宗教」があることによって、人間が培ってきた「科学」とは、「前提を疑わない派」と「前提を疑う派」という派閥を作り、おそらく対立するだろうし、これまでも対立してきた。
自分自身は「前提を疑う」ことが習い性になる環境の中で、それに慣れて育ってきたので、どうしても宗教というものを持つことができない。「当たり前」と言われ、疑われない前提と言うものを持つことに罪悪感さえ感じる。「宗教」を巡る自分自身の「心の旅」は、つまり、そういう自分というものを見せてくれた、という意味で、非常に興味深いものではあった。