「主体」も思考
解放のために、、その21
主体がない
ここでの話は、要は、、
ストーリー上で起きてくるいろいろなことに対して、問題とし得る、主体がいるか?主体がいないか?に尽きる気がします。
それを問題とする主体がない。
ところが主体、「私」には、
その経験は良くない、その経験は良いと、毎回毎回ふるいにかけている。そして、問題を創作してしまう。
主体がないと問題がない。問題になりようがない。
問題とする主体がないと、楽になる気がする。
しかし、楽になる主体も、苦になる主体もいない。
誰かに起こっているわけじゃない。
そうすると、主体がなくなればよいのだと、主体を消そうとする動き、が出てくる。
だが、消そうとする誰かはいない。
消そうとされている主体も、元々いない。
主体自体がイリュージョンである。
ならば、存在のみがあるのでしょうか?
否、存在もない、
何も存在していない、
存在かあると、存在している何かがあることになってしまう。
主体がいないと、起きていることに対して、重要性もないし、意味もない。
主体がないと、視点も当然ない。
「起こっているけど、起こっていない」とたまに聞くけど、その意味を分かる、主体はいない。
何もできない、できる誰かもいない。
理解ではない、誰かが分かっていることでもない。
じゃあ、どうすれば良いですか?
との質問か聞こえてきそうですが、、、
その質問自体が、主体の「私」から出ている質問ですよ、、、
どうこうすることができる誰かがいるという前提からの質問ですよ、、
と答えることしかできないのだろう。
120%、どうこうできる可能性は無いと明らかになることだろう。明らかになる誰かはいないのだが、、
このパラドックスが、この話を難解なものにしている。
それも含めて、そういう思考が起こってきているだけなのです。
ただ、起こっているだけです!
ただ起こっているだけ、とするか、、問題とする主体がいるか? の違いです。
「主体」自体が、起こっている思考のひとつである。
この点を吟味してほしい、体得してほしい。(吟味、体得する誰かはいませんが、、)
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