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劇「世界が朝を知ろうとも」を見て

演劇に足を運ぶようになった経緯は別で書くとして
最近、鑑賞した演劇の感想を書いていきたい。

本公演はすみだパークで行われた。
晴天で浮かれた気持ちの一方で、
見終わった後の薄暗い気持ちを今でも覚えている。

確かに、観客の心を大きく動かしたという点でこの劇は成功である。
しかしながら、あまりにも観客に一石を通すような作品ではなかったか。

テーマに入る前にあらすじを書いていきたい。

存在意義を感じられなくなると虫になってしまう世界で、人間は虫にならないために仕事と別にソーシャルワークを行っていた。ある女は過去のトラウマから虫にはならないとソーシャルワークに勤しんでいた。しかし、夢を語る中途半端なナルシストの夫や、その間で生まれた子供がカマキリだったことで徐々に自暴自棄になっていく。一方で、とあるラブホでは禁止された昆虫売買をしている大学生二人組や、性的なソーシャルワークをしていることを告白されるカップルの話が続く。

劇の詳細には立ち入らない。できれば実際に足を運んでその目で、耳で味わってほしい。

であれば、何を取り上げるのか。
「劇内と現実世界」の対比から生まれる下記2点である。
1.作家・演者と観客との価値観のギャップ
2.作家・演者の苦悩

1.作家・演者と観客との価値観のギャップ

劇内の「人間」と「虫」は、現実世界の「作家・演者」と「観客」に対比される。存在意義を見失うと虫になる劇内は、生きる意味を演劇に見出す観客がいる現実と対応している。また、劇内の人間が行っているソーシャルワークも、現実の作家・演者が提供する娯楽と似通っている点がある。

ここでの皮肉は、「人間と虫」、「作家・演者と観客」には大きな価値観の断絶がある点である。演劇では虫になった人間には言葉が伝わらないし、現実でも作家・演者の意図が観客に伝わらないことが多々ある。

空調が効く演内でひんやりと額に汗を感じ始めたのは、我々、観客が虫に例えられていることに気づいたからであった。目の前で繰り広げられる演劇の世界が、現実にじわりじわりと拡張されていく。あまり味わえる体験ではない。

2.作家・演者の苦悩

「君たちは虫だ!」と宣戦布告されたことで、多少不快な気持ちになったものの、一方で劇に溢れる思いや情熱を傾ける劇作家・演者の苦悩を感じた。なぜならば世の中の成功の尺度が、結局多くの観客(虫)から成り立っているため、必ずしも劇作家や演者の努力が成果として結びつかないからである。分からないかもしれない群衆価値で、劇の人気が決まってしまう。そのような悩みや苦悩が表現された劇だったと私は受け取った。

この劇を見ることで、劇作家や演者にあこがれてたんだなと改めて感じた。光るスポットライトで思いを表現する彼らを、ひな壇から腕を組んで眺める自分がいた。手を伸ばせば届きそうなのに、今日もどうせ届かないとあきらめてしまう。


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