世界の終わり、パラダイスのはじまり
僕ら家族は、人口2万人の街の郊外、世界の終わりに近いところに住んでいる。
歩いて10分、自転車で3分走れば、世界の終わりにたどり着ける。そこからパラダイスがはじまる。一般的にいわれる人間の想像のなかにあるパラダイスではない。このパラダイスには実態がある。観て、聴いて、触って、匂いを嗅いで、食べることができる。僕はそれを「生きた里山」と呼んでいる。
定期的な草刈りや動物の放牧で、多様に管理されたパステルグリーンの牧草地。そのなかにひっそりと、しかし確かな存在感を持って点在する農家の家々。シュヴァルツヴァルトハウスという、屋根が大きく、人間と家畜が一緒に暮らす、独特のデザインだ。牧草地を縁取り、柔らかく覆いかぶさるように森がある。トウヒやモミの木などの濃い緑の針葉樹とブナやカエデやオークなどの明るい緑の広葉樹が、モザイク状に混ざっている。人間が自然との相互作用のなかで創ってきた、そして現在でもその創作活動が続いている「生きたパラダイス」。
世界の終わり、パラダイスであるけれど、生身の人間が生活し、毎日、僕らが住む世界との交流もあるから、快適にアクセスできる道がある。交通量の少ない村道や農道は、開放感ある散歩やサイクリングができる。そこから延長して森に入っていく森林基幹道もある。表面は細かい砂利敷きの無舗装だが、丁寧で近自然的な排水措置が施してあり、轍、水溜り、凸凹もほとんどない。サンダルでも、乳母車や車椅子を押しても快適に歩くことができる。ジョギングやマウンテンバイクも気軽に安全にできる。
最近は、電動補助がついたE-Bikeなるものがかなり普及していて、これまで、勾配のある農道や森の道には自転車で入って来なかったかった元気な高齢者たちが、現代のテクノロジーの助けを借りて、森林浴スポーツを楽しんでいる。僕はハイテク技術の誘惑にはまだ屈することなく、筋肉を使って汗を掻いている。走行許可を持っている木材運搬車、トラクター、ハンターや森林官の車に、ごくたまに出逢うが、メインの利用者は、隣接する世界に住んでいる僕らのような一般庶民。僕らをパラダイスに導いてくれる大切な保養インフラだ。空想上のパラダイスと違い、毎日、好きな時間に行って、戻ってくることができる。
雨上がりの土や草木の匂い、草刈り後に散布される田舎の香水「堆肥」の匂いのなかで、耳に入ってくるのは、虫の声、鳥の声、散歩する家族やグループの喋り声、牛やヤギや羊の泣き声、トラクターのエンジンの低い回転音、といった心地よいBGM。しかし時々、現代文明社会の異音にも遭遇する。林縁の木陰のベンチがあるちょっとした広場で、若者たちのグループが、スマホからハイパワーのアウトドアスピーカーを通してアップテンポの音楽を鳴らし、食品産業が次々に生み出す「味覚デザイン」されたカクテル飲料を飲みながら、ワイワイ、ガヤガヤ、パーティをやっている。いや、若者だけではない。5月半ばの「父の日」は、親父たちが徒党を組んで、車輪のついた小さな牽引荷台に瓶ビールのケースを2ダースくらい載せて、パラダイスの農道や森道をラッパ飲みしながら騒ぎ歩くという、長年続く悪しき習慣もある。父の日なのに、家で居場所がないのかも。私は20年前の学生の頃、友人たちと予行練習をした。でも父親になってからはしていない。
このような身近で庶民的なパラダイスは、世界中いろんなところにある。消えかけているもの、となりの世界との繋がりが薄れているものもあるが、再生、発展させた事例もある。日本にも。
普通の世界の住民も、パラダイスの住民もみんな、競争をベースに金銭的利益の最大化を強いる資本主義市場のシステムのなかで生きていて、それぞれ悩みや迷い、エゴや欲がある。一方で、協力や思いやり、ユーモアや愛情といったヒューマニティも併存していて、希望や願望や喜びも持って生きている。だから、実態のあるパラダイスが存続・発展でき、となりの世界と密に繋がっていられるのだと思う。
新刊「多様性〜人と森のサスティナブルな関係」では、そんな身近なパラダイスと、その背景にあるものも描いています。
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