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「正義」って言葉に対する違和感。

 お久しぶりです。って言っても、期待されている方はほぼいないと思いますが、またつらつらと書いていこうかと。
 仕事が一段落したのと、ここ2ヶ月ほど心身ともに疲れてしまっていて、多少思うことはあっても、文章に起こすっていう作業はしんどくてしんどくて。本当に疲れていたんですけど、やっとこさ体調もマシになりましたので、出来るときにポチポチ書いていこうかなと。

 近況を今のところ書いたところで、以前から気になっていたことに近いことが表面化したので文章化してみようかと。

 オリンピックがらみでまた辞めちゃいましたよね。まあ、記事を読む限りではそら辞めない駄目なんでしょうね。日本では。しかも、公的な場で直接謝ってないのが駄目なんでしょうね。償っている過程も見えないし。文章とかで謝ったとてそれは謝ってないっていう感覚なんでしょう。大方の日本人の感覚は。

 その是非は置いておいて、今回、この問題で僕がずっと思っていることがまた出てきたなぁって思って、この記事をあげた次第。

 まあ、タイトルを見たらわかるんですけど、「正義」って普通の言葉なんですけど、怖いなぁって、今の仕事に携わって思うようになってとっても思うんですよね。

 「暴力に訴えることなく、話し合いをしなさい」って言うことを子どものころからずっと言われて育っていると思うのですが、この時に引っかかってくるのが「正義」って言葉なんです。

 自分なりの正しさを持っておくことは当然だと思うんですけど、その正しさって相対的なもので、時間や場所、環境によって変化するものだと思うんですよね。普段からこう思っているので、一つのやり方を押し付けてくる人間は嫌いです。僕は。

 あ、話は逸れちゃいましたが、話をするに当たって「正義」を振りかざしてされると萎えちゃいます。それ出してしまったら、話そこでストップされちゃうじゃないですか?

 多様性って言われている世の中で絶対的なものが重宝されるからでしょうけどね。

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