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多様性と画一化と、コストと労働と。

1.これを考えるようになったきっかけ。

 少し古い記事ですが、この記事を読んで広島の教育面白いことしているなぁって思ったんですよね。今週末は大阪で広島の教育長さんが講演されるようで。一度話は聞いてみたいものです。

 とかく、こういう時の多様化ってエリート教育の方に偏りがちなんですよね。不登校の問題もあるし、色んなことに課題があるものまで対応しているのが好感を持てました。

2.そら、多様な方がいいよね。人なんだし。

   そんなことを考えながらも、いろいろ考えているものの、自分の中ではまとまってなかったのですが、上の二つの記事を読んで、やっとこさ変わってきたというか、こういう面が注目されてきたってのがあるのかぁと思ってきました。

 働く人間のことは全く考えていません(まあ、その上にある政治や社会の捉え方の問題ではあると思います、教職員の働き方の問題は。)が、2000年以降の学習指導要領はよくできていると思っていますけど、学習指導要領では救えないのが突出した才能や不登校などの子どもを救うのが難しい。なんせ、真ん中に合わせているので。

 そら、選択肢は多い方がいいでしょうね。この辺は特別支援教育の影響もあるのかなと思います。特別支援教育が浸透してきたことで、単に教育が対処しないといけない課題が明確化されてきたような気もします。あと、世の中が許容してきたってことが大きいのでしょう。

 あと、日本人の性質を考えればこの手のことは得意なんですよ。キーワードは「和」です。

3.東アジア式の学校教育の弊害

 これは日本に限らず、東アジアの全体の教育の特徴なんですけど、一斉授業を重視するスタイルなんですよね。世界的にしていることはしているのですが、個を重視するのがヨーロッパ的な教育ですけど、東アジアは全体なんですよね。

 これは、社会の成り立ちの違いがあると思います。特に宗教観。一神教が定着しているヨーロッパと、多神教が定着(中国は宗教ではないといいますが、儒教は一種の宗教ですからね。韓国は一神教のキリスト教が人口の中で一番多いのですが、国民性としては儒教が下敷きになっているところもありますし。)している東アジアとでは全くもって考え方が違いますし。

 日本って宗教を敬遠する部分があるのですが、特に一神教を理解していないと世界史は理解できないと思ってもらった方がいいと思います。日本の常識は世界の非常識なんて言われていましたが、根本は宗教観だと思っています。
 この辺については、別の機会で取り上げたいと思います。

 話はいつものように脇道にそれましたが、一斉授業スタイルが定着している東アジアでは「追いつけ、追い越せ」の時代ではとても有効なスタイルなんです。だって、答えは決まってますから、それを刷り込みのように教えればいい。
 だから、社会科は暗記教科であるみたいな言説が飛び交うわけでして。その辺ことは下記から飛んでみて頂けると幸いです。

 でも、今は不確実な時代です。知識を入れても前提条件が変わるからその知識が古くて使い物にならない時代です。新しくアップデートしていかないといけない時代には一斉授業ってスタイルは馴染まない。

 さらに、日本は「和」つまり、「輪」からはみ出すことを極端に嫌う傾向があります。「出る杭は打つ」「みんなと一緒」ってやつです。当然、みんなと一緒で合わせないといけない部分はあって当然なんでしょうけど、得意なことを得意でない人に合わせるって難しい。

 僕は以前に社会科が好きになるきっかけの話を書かせてもらいましたが、基本的には社会科の授業は先にさっとやって自分の好きなことをしている生徒でした。教員からしたら「何?あいつ?」って奴です。でも、それをすることで自分の好きなことを伸ばしていた部分もあるのですが、これは時間の無駄遣いといっても仕方ないのかもしれません。時間は有限ですから。

 しれっと別記事の紹介をしたところで、でもね、日本人の特徴なんですけど、突出した才能を好まないわけですよ。だから、出る杭は打たれるわけですし、その象徴が小学校の運動会で最後は並んでゴールすることだったりとか、日本が嫌になって外国で暮らすとかなるわけです。もちろんいい方向に働くこともあるのですけど、悪い方向に働いてるんですよ。特に教育分野においては。

 このように、東アジア的特徴と日本人の特徴の二つの観点から、日本人の良しあしを説明してきましたが、それを克服しようとしていることなので、良いことであると思います。でもね、良いことばかりではないと思うのですよ。これを許容できますか?コストの問題。

4.多様性と画一性、コスト。

 今の流れを一言で説明するとしたら、「教育の多様性」であると思います。人は様々な特徴がありますから、多様な教育が提供されるってことはとてもいいことだと思います。でも、そこにはコストという魔物が潜んでくる。

 教育は金食い虫です。全部が全部とは言いませんが、お金をかければかけるほどいいものができる傾向があります。設備もそうですし、人に対してもそうです。だから、教育の経済学という学問が成り立ちますし、経済格差で貧富の差が再生産されるということもあります。

 日本は第二次大戦後一斉授業で復活しました。教師になろうという優秀な教員が多かったこと、「全員で」を重視した国民性、その他さまざまな要因がありますが、その結果得たものがあります。「画一性」ってことに。

 たまに、「教育は洗脳である」って冗談半分で言うことがありますが、結構本気で思っていることもあって、やり方一つでは洗脳している訳じゃないですか。戦中の学校教育を見ていると。
 その反省から戦後の教育は始まるのですけど、教員は「教育は洗脳である」ってことを肝に銘じておかないとダメだと思っています。
 これが一斉授業しているときにないと知らず知らずのうちにミスリードしているときありますからね。

 名物のように話は逸れていますけど、要は、一斉授業の副産物として出てくるのが「画一性」なんです。個性が死ぬ。
 系統式学習(これはまた別の機会に言います。ここでは、皆さんが教科書で習っている授業とさせてください)の弱点でもあるのですけど、一斉授業は知識を一気に教授できるので、教える方は簡単。教わる方も簡単。教える方は「AからBになる」って言えばいいし、教わる方は「AからBになる」って覚えればいい。

 その結果、考える機会を失って、学習に面白さが無くなるってことになるし、多様性が失われて、画一性が強くなってしまうってのが日本の教育の病、所謂「詰め込み型教育」になるのですが。(これは東アジア的特徴でもあるかもしれません)

 この一斉授業、画一性の他に結果生まれたものがあります。「教育はコストパフォーマンスがいい。」つまり、教育はタダと思うようになったきっかけの一つです。これだけではありませんが。

 日本人、教育に対しては昔から大切にしている民族だと思うんです。文化レベルが高かったから、幕末の帝国主義が横行している中で欧米列強の植民地にならなかったのは日本人の識字率が世界で一番だったことも挙げられているぐらい。

 それぐらい教育にかけていたのに、学校に対して極端にお金をかけないんですよね。技能を持っている方に対して、対価を支払わないとか。「学校でしていることなんで、ボランティアで」って言うんですよ。教員が。これ本当に変えた方がいい。

 それを言うには原因があって、とにかく学校に自由に使えるお金がない。新しいことをするためにはどこかからお金を引っ張ってこないといけない。財団とか。補助金とか。
 それすると報告書が増える。つまり仕事が増えるからしたくないとなるわけで、多少なら自腹切るかってなるんですよね。全員ではありませんが。

 あと、教員全体の問題として、時間とお金にコストパフォーマンスを求めない部分があるかもしれません。長時間労働の原因はいろいろありますけど、コストパフォーマンスの部分は大きいのかもしれません。残れば残るほど美徳って言う文化もありましたし。

 お金は使ったことないので、余計なものを買ってしまうってのはあると思います。つまり、やりかたが分からないから変なものを買ってしまうという、よくある話です。あと、それだけ教員がお金を使うことに対して信用されてない部分もあるかと思います。

 要はもともと教育というのはお金がかかります。多様性を許容するとお金がかかります。それをOECDで教育費が下位の日本でそれを皆さんが許すのでしょうか?

 あと、多様性を許容するってことは、人を増やすってことになります。教員の労働問題とも向き合わなければなりません。

5.教員という労働

 上のOECDデータによると、教職員給与は平均らしいです。でも、労働条件が違いますよね。国によっては日本の予備校みたいに教員は授業さえしてればいい国もありますしね。それだけなら楽ですよ。本当に。
 
 予備校教師が授業上手で当然ですもん。なんせ自分の教科のことさえ考えていればいいですから。それで、教えるのが下手くそも多かったですけど。あ、僕、当時の大手予備校に通ってましたから。

 で、多様性を許容するということはその分のコストに対応できるかってことだとお話ししていましたが、コストで一番多いのは人件費です。
 人を増やさないと様々な教育に対応できません。ただ、今の公立学校で人が足りません。なんせ人がいないんですもん。

 人が情熱を持つためには、様々な要因が必要です。それを聖職詐欺であるとか、他のことで働く人間をある種だましてきた訳ですよ。単なる免許のいるサラリーマンにしていって。

 もちろん、教員も「師」業としての専門職であるというプライドを持たないといけません。免許がいる職業であることに対してのプライドがなさすぎなのは事実です。あと、昔あった変なプライドはいりません。職業としての専門性に基づいたプライドです。これが要ります。

 あと、なんでも魅力的な職業にしていかないと誰もやらなくなります。魅力的にしていくのに有効なのは仕事量と報酬です。これを聖職だからってことで誤魔化してきましたが、そろそろやめませんか?

 本当にどうにかしないと多様性を許容するとかその前に、この国終わってしまいますよ。

 それにしてもよく書いたねぇ。

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