やめては始める『Twitter』


はじめに

 多分、6回。Twitterのアカウントを消し、時間を置いて新しくまた作る。この行為を多分、6回くらいしてる。炎上してしまって、名前を変えて活動しているのではない。そもそも創作活動などしていなければ、ツイートが何千何万とリツイートされたことなどもない。それなのに、突然距離を置いて離れたくなる。タイムラインに浮上しなくなるだけじゃ気が済まず、アカウントごと削除してしまう衝動に駆られる。結局また作るのだけど。

なぜやめるのか

 このパターンに陥る原因はだいたい2つに決まっている。あれもこれも知ろうとしすぎてしまった場合か、あれもこれもツイートしようとしすぎた場合だ。
 前者は不快なツイートを何度も見てしまって、自分自身が向いていないと感じる場合だ。同じSNSである『Instagram』は良い写真ほど人目を浴びるが、『Twitter』は写真よりも文字が核となるメディアだ。こんな話があった~といった体験談や、流行のものをなぞらえた大喜利のようなものをよく見かける。それらを見ているだけで楽しいという人もきっといるのだろう。だが拡散、注目されている『バズってる』ツイートを見ても、何も響かないことがよくある。不快になることもある。それなのにリプライ欄やリツイート後のツイートを見ると、絶賛に溢れてたりする。それを見ると本能的に、「ここにいたら駄目だ。」と感じ取ってしまうのだ。ひとりカラオケでトイレから戻ったら、熱狂している大人数の部屋に誤って入室してしまったような部外者に、自分自身が思える。「こんなの面白くもなんともない」と、勇気とはき違えた異端気取りの逆張りを展開する勇気も、「嫌な思いをした」と、暇を持て余して悪質な問い合わせに情熱を注ぐようなクレーマー気質も、あいにく持ち合わせていない。何かを見て文句を言っても、「嫌なら見るな」と一蹴されるのは目に見えて分かっている。だから、使うのが向いていないみたいだしやめてしまおうという方向に向かうのだ。

 続いて後者のツイートしすぎに関して。こんなにも気軽にツイートできるメディアなのだから、自己発信する内容なんて、法や倫理に反しなければ何でもいいと思う。やはり、好きなものを話すことが一番なのではないか。タイムラインに表示されるフォロワーのツイートを見るのは楽しい。「好き」に溢れた語りや、関心せずにはいられない拘りなんかを見ると、物凄く生き生きしている様子が感じ取れる。だからどんどんツイートしてほしいと思う。
 厄介なのは、その考えを自分自身に当てはめられないことだ。許されるのであれば、1日中好きなことに関するツイートをしてみたい。大好きなバンドが発表した全楽曲を1曲1ツイートずつ気持ちを述べていくなんてやったら楽しいかもしれない。そこまで企画じみたことは実践したことはないけれど、ブレーキ知らずでひたすらにあれこれツイートしていた時期は確かにあった。けれども突然、タイムラインに並んでいる自分自身のツイートが、何故か浮いて見えて仕方なくなってしまった。これは今も変わっていなくて、理由はずっと分からない。「こんなにも素敵なツイート群に、自分自身の「好き」を投下していいんだろうか。」、そんな考えが頭から離れなくなり、前者の理由と同様に「向いていない」と自分自身を思いこませ、やめた。いまだに、人様のタイムラインに土足で踏み込んでまで自己顕示欲を満たしてよいのかと怯えてしまう。逆だったら、不快な気持ちは毛頭ないのに。

リアクションがあったなら?

 反応がもらえたら、また変わったのだろうか。「私もあのツイート、面白くないと思いました。」、「僕もその曲好きだよ。」なんてリプライが届いたら、もっと伸び伸び使いこなせていたのだろうか。残念だが、そんなことはないと思う。誰かの反応がほしくて始めたのではないから。それが欲しいのなら、共感を得られそうな大衆受けしやすいものをタイムラインに流すと思う。インターネット上で趣味を通して関係を築くことは、避けるようにしている。それでも、奇跡的にもらえた反応の虜になり、誰かしらが声をかけてくれるまで延々とツイートをやめない道をたどっていたかもしれない。

それでも戻ってくる

 ここまで思想めいたことをねちねち考えても、実際は『Twitter』に戻ってきてしまっている。こちらの理由は単純明快で、便利だからだ。趣味に関するニュースを受け取るには、利用する数に値するアプリをインストールするか、ブックマークしているサイトにアクセスしなければならない。ほんの1,2タップだが、これを様々な企業ごとにとなると面倒で仕方がない。『Twitter』をやめた直後は、ブックマークリストがとんでもない数になったこともあった。ここまできてスマホ依存を疑ったエピソードもあるのだが、それは脱線するのでやめておく。とにもかくにも、これだけ一度にたくさんの情報収集ができるメディアは『Twitter』の他にないので、結局ニュース感覚で戻ってきてしまうのだ。
 間違いなく、『Twitter』は便利だ。情報の正確さや質は優れているとは決して言えないし、それ公に流しちゃっていいのかと困惑してしまうような内容が目に飛び込んできてしまうこともあるにはある。しかしながら、こんなにも瞬時に『いま』のことが分かる媒体はないと思う。

見る専デビューで終われない

 大量に情報を得られる利便性と過度に浴びられる快感を忘れられず、そうして何度も『Twitter』に戻ってくる。復活してすぐは大抵、閲覧するだけの状態になる。プロフィールもアイコンも初期設定のまま、ツイートはしない。ツイートを見る専用のアカウントだ。案外こういった使い方をしているユーザが多いと聞く。今もiPhoneで愛用しているアプリは、『ツイートボタンを非表示にする』なんて設定も可能なのだから。

 これで、自分自身のツイート内容に悩む必要なし。受け取りたい情報も提供され放題。全て解決するはずなのだ。それなのに、『Twitter』というサービスを利用する上でアカウントを取得したら宿命なのだろうか。結局見てるとツイートしたくなるのだ。『つぶやき』で自己発信をするのが、そもそもの『Twitter』だ。ニュースメディアや商品PRの公式アカウントは山ほどあるけれど、新規ツイート画面の入力スペースには『いまどうしてる?』という呼び掛けが記載されている。自分自身に関する毒にも薬にもならないほんの些細な1ピースを、文字に起こして発信したくなる。辛抱ならずに呟いて、迎える先はまた始め。気づいた時にはいつものパターン。

さいごに

 できれば今度ばかりはやめずに続けていきたいが、一体何を考え、何をツイートすれば良いのだろう。注目なんて、本当にされなくていいのだ。大々的に『【速報】』と銘打っていち早く視線を浴びようとしたり、まだ誰も注目していない隠れた名品の写真を上げて、次のヒット商品の先駆者になろうとしたいわけでは決してない。となれば肩の力を抜いて、『いま』の自分自身をありのままにツイートすればいいのだろうか。頭では思っていても、気持ちがそれを納得しようとしない。今の自分自身は、これらの項のどこに位置するのだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?