【オリンピック閉会式を舞台芸術として評論してみる】


 オリンピック開会式を舞踊評論家としてプロの視点から検証したところ、思いのほか反響を得た。
 
 【東京オリンピック開会式について】
 
 プロの評論家が果たす役割を再認識してもらえれば、これからの若い書き手のはげみにもなるだろう。
 
 そこで閉会式についても、舞台芸術として、プロの立場から評論を記しておきたい。

 ただ、本稿では、前回の結論である
 「演出の問題はやはり組織委員会の進め方と巨額の予算が現場に届いていないらしいことに集約できそうではある。」
について、「165億円の予算のうち、現場の予算は4式典で10億だけ」というとんでもない数字が出てきたので、まずはそれについて書いておきたい。
 
 閉会式のレビューを先に読みたい方は、 ■□■□ で区切られた第二部から読んでいただきたい。


【第一部:予算の9割が消えた件について】


 
●「延期になったんだからしょうがない」わけがないだろ

「コロナで延期になったり、演出が変わったりしたんだから、式典の予算がなくなるのはしょうがない」という人がいるが、とんでもない話だ。
 165億円という予算は、ロンドン大会の開会式を4回やってまだ余る額である。
 かりに延期や演出変更によって、ロンドン大会一回分にあたる費用がまるまるぶっ飛んだとしても、全然余裕の予算があったはずなのである。
 
 ちなみに式典予算の上限額はコロナ前の2019年2月に130億円、そのすぐ後に165億円に増やすことが組織委員会で決定された。まだ森喜朗氏が会長だった頃だ。

 使い道としては「人件費の増加分」「すでに作ってある構造物の保管」だそうだが、そんな「構造物」が、今大会で、一体どこに使われていたのだろう。
 
 ●じつは10億円しか残ってなかった(4式典全部で)⁉︎
 
 さて文春砲により元電通の佐々木宏氏が、女性蔑視発言で糾弾され辞任したとき「謝罪文」を出した。その後の「追記」で、驚きの証言をしているのだ。
 演出がMIKIKO氏から佐々木氏に代わったとき、
 
 「演出予算が10億で4式典をやると⾔われ」たと告白しているのである。

【全文】五輪式典で不適切演出案の佐々木宏氏「大失言…渡辺直美さんに伝わる時が来たら辞表を」
 
 誰に「言われ」たかと言えば、式典の受託会社すなわち電通である。
 単純に割ると各式典の予算は2.5億円。
 ひときわ低予算と言われていたリオ大会でも20億円なのだから、そりゃショボくなるのが道理だろう。
 
 この追記を信じるなら、「10億で4式典」はMIKIKO氏の段階で受託会社(電通)から告げられていたと思われる。もちろんMIKIKO氏は抵抗しただろう。
 そして、演出責任者から外された。
 MIKIKO氏が受託会社(電通)に送ったという「このやり方を繰り返していることの怖さを私は訴えていかないと本当に日本は終わってしまう」という言葉にある「このやり方」とはそういうことではないのか。


  〈簡単な流れをまとめておくと〉
 ・組織委員会が165億円の予算を通し、式典の受託会社である電通がゲット
 ・電通がMIKIKO氏に「4式典を10億円でやるように」指示?
 ・MIKIKO氏が反発?→ 電通によって演出責任者を外される
 ・後任についた元電通の佐々木宏氏も「4式典10億円案」に驚きつつMIKIKO氏案を土台に作り直す
 ・佐々木宏氏の過去の身内LINEで発した女性蔑視発言が文春で報じられ、大炎上する。
 ・世論は、女性蔑視発言糾弾で燃え上がり、「電通が165億円のうち150億円を中抜き」はあまり注目されず。
 ・記者会見で、組織委員会が電通の度を超した中抜きを「追認」する発言(後述)
 
●この話は信用できるのか⁉︎

 とはいえ佐々木氏は当事者であり、謝罪文と追記自体、けっこう自己弁護的な言葉に溢れている。
 そしてこの発言以外に(MIKIKO氏に関する文春砲ですら)触れた物は少なく、物証が出てきているわけでもない。
 この話に信憑性はあるのだろうか?
 
 オレは、いくつかの理由から、信憑性はある、と思っている。
 
・「内部の暴露」であること
 電通は佐々木氏の古巣であり、今後も仲良くしておいた方が何かと都合がいい存在である。
 にもかかわらず「10億で4式典」という、電通にとって都合が悪い、具体的な情報を暴露しているのは、それなりの覚悟を固めたうえでの発言と見ることができる。文章からにじみ出てくる「全部を自分のせいにされてはたまらん」という感情も、暴露に踏み切った動機として裏付けとなる。
 
・金額が異常なこと
 もしも佐々木氏が嘘をつくなら、読者が「なるほど、ありそうだ」と思える額にするはずだ。
 しかし「165億円の予算のうち155億円を電通が中抜きした」というのは明らかに異常な数字であり、だからこそこの数字には信憑性がある。マスコミが裏取りに動くのは明らかであり、でっち上げに使うにはリスクが大きすぎる数字だからだ。
 これがウソなら電通側は資料を出して反論すれば一蹴できるはずだが、まだそういうことはないようだ。
 
・組織委員会が、「追認」していること
 これが一番大きいのだが、じつはこの件、記者会見で組織委員会に対して、直接質されているのだ。
 
 橋本聖子会長同席の記者会見(2021年3月18日)で、組織委員会の武藤敏郎事務総長に対して、記者が、

 -延期後、4式典で予算は5分の1、10億円と佐々木氏の謝罪文にあるが本当か
 
 と尋ねているのである。

MIKIKO氏辞任理由は/橋本・武藤両氏一問一答
[2021年3月18日20時36分]


 これが佐々木氏の作り話なら、数字が異常なだけに
 「えっ……(絶句) まさかそんな馬鹿なことはない思いますよ」
 とか、
 「さっそく確認・調査します」
 とか言うはずだろう。しかし武藤敏郎事務総長の答えはこうだ。
 
 「武藤氏 受託会社(電通)の話だろうと。我々が提示した開閉会式の予算165億円をどのようにするべきか考え、執行するのは受託会社。」

 つまり税金である165億円を、電通がどう使おうが、たとえ155億円を懐に入れようが好きにしていい(チェックする気はない)、と組織委員会がお墨付きを与えているのである。
  
 これは重要な傍証だと思う。
 
 式典の中身、たとえば「どの出演者にいくら払うか」といったことは電通に任せて、いちいち確認を取る必要はない、というのなら、武藤氏のいうこともわかる。もちろん電通も会社なので利益を上げること自体が悪いわけではない。
 
 しかし質問者は「オリンピックという国を代表する公的なイベントで、一企業が予算の90%を懐に入れている(明らかに式典のクオリティに影響する額)」という異常な数字について問いかけているのである。
 
 だが組織委員会は驚きもしないし、異常とも考えていない。チェックする気もない。これでは「組織委員会が、はじめから電通に中抜きさせるために(そして政治家に環流させるために森喜朗元会長の指示により)金を突っ込んだ」と見られてもしょうがないだろう。

・現場の声と電通の損失
 そしてとにかく現場からは「金がない」の声が報じられている。 
 電通は「電通五輪」といわれるほど深く関わり、オリンピックが延期・中止となれば倒産するかもとまで言われていた。そしてすでにあからさまな中抜きは様々な場所で問題になっている。報道が正しければ、式典の費用が、そうした電通の損失補填に充当する「中抜きの狩り場」とされていた可能性は高いだろう。(注:6月29日に電通本社ビルを少なくとも2680億円で売却する予定だと発表)

●「女性蔑視発言」はミスリードなのか
 
 おそらくは文春砲が佐々木氏の「女性蔑視発言」と「MIKIKO氏の“排除”」を結びつけて報道した影響で、オリンピックの式典は、
 
「女性蔑視のオッサンが、女性演出家のアイデアを横取りした。その後もゴタゴタが続いて情けない結果になった」
 
という論調になった。おまけに佐々木氏が、みごとな「悪人顔」だったので、イメージが固着した。(個人的には、退任にまで追い込まれるほどのネタだろうかと疑問を感じる。炎上の仕方があまりにも速く大きく煽られすぎていた印象があるのだ)
 そして文春砲では、なぜか電通の中抜きについてはほとんど触れていない(MIKIKO氏を守る意図か、これから追撃があるのかもしれないが)。(追記:特になかった)

 さらに土壇場で信じられないようなゴタゴタが重なり、すっかり、
「式典がショボかったのは、日本のエンタテインメント界、舞台芸術界の不手際」
みたいになっているが、本質はどう考えても、
 
 「電通が9割中抜きした結果、クオリティがだだ下がりした」

ということなのだ。

以下の評論は、そんな状況で奮闘した現場に思いを馳せながら、読んでいただきたい。

 
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■


【第二部:オリンピック閉会式を舞台芸術として評論する】


 さて見てきたように、現場には十分な予算がなかったようだ。現場のパフォーマー達は頑張っていた。
 しかしプロの評論家としては、上演されたものが全て。
 「頑張る姿に感動した! ありがとう!」などというわけにはいかない。
 舞踊評論家として上演物のクオリティについて厳正に検証していきたい。

●改善されていた点『高さ」
 
 まずは改善されていた点から触れていこぅ。

 開会式がショボく見えた要因としてオレが挙げたのは、
 「高さの演出がない」
 「演出の考える空間サイズが、スタジアムに合っていない」
 「全体を貫く流れやテーマが感じられない」
 「それそれ!感」のなさ
 ということだった。

 この点、閉会式はどうだったか。
 
 「高さ」の演出は相変わらず(おそらくは資金的な面から)なかった。
 中央に低い広めの台があるだけだった。
 
 しかしカメラアングルには工夫が見られた。
 開会式では、観客席からの視点で「斜め上から」映した物が多かったため、寒気がするほど空間のスカスカさが際立っていたが、今回は下から見上げるようにカメラが撮っていた。
 
 そのため低いながらも「平場→中央の台→スカパラの演奏台」という三つの高さができ、人体も「点」ではなく立ち上がって見えた。
 無観客だからこそ、映像だけだからこそできたことだが。

●改善されていた点「空間サイズ」「多様性」

 また「空間サイズの把握ミス」に関しても、閉会式ではアクティング・エリアをスタジアム中央に絞ることで、「狭いながらも密度のある空間」を作っており、寒々しさは減じられた。
 
 引き換えに「広いスタジアムをいっぱいに使い、ド迫力の高さの演出で見せる」というスタジアム本来の場所の魅力を引き出すことはできなかったわけだが……
 
 いっぽう「全体を貫く流れやテーマが感じられない」という点は残念ながら改善されなかった。
 
 それでも「多様性」では、オレが「出すべきだ」と書いたアイヌや琉球が映像ながら出てきたのは良かったと思う。
 (注:もっとも「アイヌ古式舞踊」という言い方の正当性には様々な意見がある。アイヌの文化を徹底的に破壊したのは日本政府の「同化政策」であり、2019年に成立したアイヌ新法の受け取られ方もまた様々だからだ)
 
 またリナ・サワヤマがLGBTQコミュニティに捧げた曲『Chosen Family』が最後にかかったのも、メッセージ性があるように見える。
 ただサワヤマは日本生まれだが5歳でロンドンに移住している。「アジア人でクィア」であるサワヤマを差別したのもイギリスだが、そんなサワヤマを評価し、世に出したのもまたイギリスの音楽界・アート界である。日本の力でもなんでもない。
 
 国としては同性婚も認めていない日本が、我が物顔でサワヤマの人気にタダ乗りするようで、情けない気持ちにならないだろうか。
 
 ●「東京の公園の日常」 誰が見たいと思うのか?

 閉会式は「謎の演出」が多かったが、
「選手達はコロナ禍のため観光ができなかったので、東京の公園の日常を再現してお見せする」
 として、中央の台で若いパフォーマー達が体操やジャグリングなどを始めるシーンは、本当にちょっと何言ってるんだかわからなかった。

 世界的な一大イベントを締めくくる式典で、なぜ「東京の公園の日常」を見たがっていると思ったのだろう。
 
 開会式とは違い、ジャグリングやアクロバット、BMXなど、全身を使ったり、走り回ったり、ジャンプしたり、多少なりとも「高さ」を意識して、パフォーマー達は頑張っていたけれども。
   
 しかもやればやるほど「楽しくやっている私たち」という「内輪受け感」がどんどん増大して、視聴者の気持ちは遠ざかっていく。
  
 だいたい「和服を着て剣玉をやる人」やダブルダッチをする人が「東京の公園」にそうそういるかね。
 それになぜアジア系の若者ばかりなのだろう。
 東京の日常は、老人や外国人もたくさんいて、もっと多様性があると思うのだが。
   
 ●ワカメダンスは衣裳がひどい 

 今回一番ざわめいたのが、「リオ大会から盛り込まれた、亡くなった人々への追悼のダンス」を踊ったアオイヤマダ氏のパフォーマンスだった。
  
 とにかく、衣裳がひどいよ。
 巨大なポストイットで作ったような蛍光色の緑のヒラヒラの衣裳。ネットでは「ワカメダンス」というワードが飛び交った。

 木がモチーフだそうだが、だからといって緑と白(根っこ? 根毛?)で「木を表現する」なんて、テレビの子供番組の着ぐるみか、地方の農協のCMぐらいのものだろう。
 大会スタッフの制服を手がけたという「紳士服のAOKI」のデザインなのだろうか?
 すくなくともいまの世界的な第一線の舞台芸術に携わっている衣裳デザイナーなら、絶対にしないデザインだと断言できる。

コンテンポラリー・ダンスでは、衣裳はときに振り付けに影響すら与える重要な存在だからだ。
 
 〈参考〉
 バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第6回〉
 ダンスと衣裳〜すごく近くて、ものすごく深い〜

 
 
 あれが「日本の舞台芸術の代表」として世界に配信されたかと思うと、恥ずかしさにのたうち回りたくなる。

●「表現」ではなく「説明」になっている

 アオイヤマダ氏は若くて才能ある人だと思うが、今回のようなダンス、すなわち「広大な空間で、短時間に、重いテーマを扱うダンス」には、やはり経験不足だったのではないか。

 彼女が評価されてきたMVなど、歌に合わせて踊るダンスでは、歌詞が一気に作品世界に引き込んでくれる。
 しかし今回のように歌詞のない、音だけで踊るというコンテンポラリー・ダンス的な踊りでは、身体ひとつで観客をそこまで引き込まねばならない。そのうえ追悼という重いテーマを表現しようとするのは容易ではない。
 
 そうしたダンスへの経験不足さが各所に現れていた。
 
 まずはやたらと「顔」で表現しようとしていたことである。
 本来は喜怒哀楽は、踊りでこそ「表現」するべきなのだが、「自分はいまこんな気持ちで踊っています」と顔で「説明」してしまっているのだ。
 それは不安の裏返しであることが多い。
 
 追悼ゆえに悲しげな表情をして踊るが、観客が悲しげな気持ちになるまえに、ダンサー自身が表情を作ってしまっては、観客の気持ちは引いていくばかりである。
 
 表情は説明的になりやすく、「表現」を限定してしまう。
 
 昨今のコンテンポラリー・ダンスでは、ずっと顔を見せない(あるいは首を曲げたり反らせて頭部自体を見えない)ように踊る「フェイスレス」「ヘッドレス」というスタイルで高い評価を得ているロニ・ハダスやダミアン・ジャレ、日本でも三東瑠璃などがいるほどだ。
 

●「正面」に強すぎる
 
 またエンタテインメント系のダンスの人にありがちなのだが、とにかく「正面」に強く、という意識が先行しがちだ。
 アオイヤマダ氏も、顔が正面(カメラ方向)を向いたまま踊るシーンが多く、身体よりも目や表情で語りかけていた。
 
 しかしコンテンポラリー・ダンスでは、「正面」はよくよく考えるべき問題なのである。
 前回「振り付けは動きだけではなく、空間全体の演出」と書いたが、ダンサーも、その意識は正面だけではなく、背後や上空や、全ての空間を把握しながら踊るものだからだ。
 
 (参考)バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第4回〉ダンスにおけるセンター問題〜ヒエラルキーを無力化する戦い〜
 
 
 ましてあのような「舞台美術もない、ただ広いだけの場所」「歌詞のない音楽」「テーマに沿って踊る」には、「動き」を見せるだけでは、間が持たない。
 そこで必要なのは、動きではなく「空間における身体のありよう」を見せる力量である。
 残念ながら今回、その力量は足りず、動きに、そして表情へ、すがりついていった。

 その結果が、最後のエビ反りだろう。
 それまでのダンスの流れによって観客の感情がつかまれていたら効果的だったかもしれないが、そうでない以上、こういうアクロバティックな動きは、じつにリスキーである。
 「まさかこれを出しときゃ観客は驚くとか思ってんのか?」
 と受け取られ、せっかくの彼女の身体性が裏目に出てしまい、もったいなかった。
 
 まして今回はオリンピック。周囲は超一流のフィジカル・エリートだらけなんだしな…… 

 もっとも、周囲を手持ちの行灯を持って回る演出は美しかった。これも斜め上空から映されると空間のスカスカさが目立ってしまったけれども。

繰り返すが、アオイヤマダ氏のダンサーとしての才能は、揺るぎないものがある。これからも、その活躍を注目していきたい。

(参考)コンテンポラリー・ダンスとダンスの歴史については拙書 『ダンス・バイブル』〈増補新版〉
 
●「光の五輪」には問題がある
 
 閉会式で、「これは本気を出してきたか!?」と期待させたのが、会場中の光が宙に登っていき、空中に「光の五輪」を描いたシーンだ。
 美しかった。開会式でネックだった「高さの演出」もできてるじゃん!
 
 しかしすぐに「技術的にこんなことができるのか?」と疑問がわいた。
 ドローンにしては数が多く、3Dホログラムにしては大規模すぎる。
 結論から言うと、これは放映用に作ったCGだった。
 おそらく少し前の会場の映像へAR的に被せたのではないか。
 じっさいこのとき会場は闇の中で、放送されたのと同じ「CG動画」がスクリーンに放映されていたという。

 問題なのは、この間中、画面上にはずっと「LIVE」つまり現地からの中継であると表示し続けていたことだ。
 解説でもこれがCGであることは一言も言わなかった。それどころか「会場参加者の光も使われています」と、いかにも会場で実際に行われているかのような印象操作をしていた。
 
 これは実にアンフェアなことだ。
 
 北京大会で、大騒ぎになったことを覚えていないのだろうか。
 開会式で「街中に次々に花火が上がり、それが『足跡』の形を作る。まるで見えない巨人がスタジアムへ歩み寄ってくるようにみえる」という映像を、ライブでに行われているかのように流したのだ。
 
 やはり「花火であんなに綺麗に描けるのか?」「花火の音なんてしなかったぞ」と疑問が殺到し、CGであることが後から報じられたのである。
 
 とくに今回は「開会式がショボく、閉会式で盛り上げたと思ったらズルだった」というオチで、演出の姿勢が疑われるやり方だろう。


●ラストはマジで意味不明

 最後のシーンは、まるで演出を放棄したかのような「なにもなさ」だった。

 大竹しのぶ氏が子供達と一列になって宮沢賢治の「星めぐりの歌」を歌う。それだけだ。
 
 次に中央の台に駆け寄って、上に乗ったのだが、おそらく海外の舞台関係者は、
「なるほどね。ここでなにかガラッと演出を変えるわけね」
と思ったに違いない。

というのも、ヨーロッパでは「一見シンプルに見える舞台美術が、クライマックスに完璧なタイミングでがらりと様相を変え、あっと驚かせる」というものが多く、まさに演出のセンスの見せ所だからである。

(参考)
バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第7回〉ダンスと舞台美術〜最大の強みを生かし切れぬ人のために〜

 しかし…… 何も起こらなかった。
 祈って、火が消えて終わった。
 もうね、コース料理のデザートに「うまか棒」を出されたような気分ですよ。
 そりゃ「うまか棒」はうまいし、大竹しのぶ氏はすごい女優だけど、これでいったい何が締めくくられんの?

 20年前はコンテンポラリー・ダンスもあえてスペクタクルを拒否したりもしたが、すでにそれを凌駕する驚きと深さの表現が山ほど出てきている昨今、これはただの無策でしかない。
 
 あえて深読みするなら、宮沢賢治の出身地である岩手県は東日本大震災の被災地であり、「星めぐりの歌」は星になった(亡くなった)者達への思い。
 その前の盆踊りや日本の祭の多くも、亡くなった人に思いを馳せるお盆に行われるものだ。

 開会式の評で書いたように、IOCから「復興五輪」は拒否されていたという。
 だからそれとわからぬ形で、追悼の意を込めたのかもしれない。

 だが「それとわからぬ形」であっても、つまらんものはつまらんのだ。
 まずは素晴らしい演出をして、そこに様々な意を「それとわからぬ形」で込めてこそプロだろう。放棄してどうする。
 
 演出の日置貴之氏は開幕前のインタビューで、大会コンセプトが英語しかなく「日本のお年寄りにも知らせたいので日本語はないのか」と聞かれて、「世界の人に伝えたいから英語しか出さない」と答えていた。
 
 日本人がキョトンとするこれらの演出の、いったいなにが海外に伝わるのだろうか。

●まとめ 「国ならではのワクワク感」「新しい価値観」がない

 パフォーマー達は頑張ってはいた。
 それなりに工夫もされていた。

 しかしどうしても「町内会の、大きめのイベント」という以上の印象を持つことができない。
 
 なぜなら全体を通して「国の存在」を感じられないからだ。
 
 ロシア大会でロシアを代表する二大バレエ団が共演するような、「国のイベントならではの奇跡的瞬間」はなかった。
 
 閉会式で流された、次回フランス大会の紹介映像を見たろうか。
「歴史あるオルセー美術館やパリ・オペラ座のガルニエ宮の屋根を自転車で疾走する姿」や、「ジェット機がエッフェル塔を包むように三色旗トリコロールを描く」といった、通常ならまずあり得ないことが起こっていた。
「オリンピックという特別な、国のイベントだからこそ実現したのだろう」と、ストレートに伝わってくる。
 
 しかし東京大会の開閉会式全部を通しても、ワクワク感において、あの数分間のフランスの映像にすら、とても及ばないだろう。

 もしも東京オリンピックの開閉会式で、「こんなすごいものはオリンピックじゃなければ見られなかったよ!」という感動があれば、オレを含めオリンピックに否定的な人々も、得がたい宝物として記憶に留めたはずだ。

 が、その瞬間はほとんどなかった。
 
 そしてもうひとつ。
 舞台芸術の使命とは「新しい価値観の提示」である。それもなかった。
 手持ちの材料を形良く並べただけでは、アートと呼ぶことはできない。
 
 今大会の開閉会式が「町内会の、大きめのイベント」というのは、そういうことである。

 しかし冒頭で書いたように、日本のエンタテインメント、パフォーミング・アーツの実力は、こんなものじゃない。
 165億円という予算の1/4でも現場に回っていれば、同額の予算だったロンドン大会にも負けないものができたはずだとオレは信じている。
 
 内容に不満がある方は、ぜひ「165億円のうち155億円の行方」に関心を持っていただきたい。
 
 ====(終わり)====


(みんなの反応)
https://netnavi.appcard.jp/e/B-RlSy


【東京オリンピック開会式を舞台芸術として評論してみる】
https://note.com/nori54takao/n/n72a90c76b050

【オリンピック閉会式を舞台芸術として評論してみる】
https://note.com/nori54takao/n/na71f7eb1dd8c

【パラリンピック開会式を舞台芸術として評論してみる】
https://note.com/nori54takao/n/nd05ef2984851

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