【東京オリンピック開会式を舞台芸術として評論してみる】


●はじめに MIKIKO氏「外し」の意味?

 オリンピック開会式について、さすがにあれだけ無茶苦茶な経緯で現場に振られたパフォーマンスについて「日本のダンスは」とかいわれてもたまらんなと思って、内部事情などはわからないままにあくまでもレビュー的に書いていたのだが、その最中に追い打ちをかける文春砲が、とんでもないものを発表した。

「台本11冊を入手 五輪開会式“崩壊” 全内幕 計1199ページにすべての変遷が」
(※以下、「台本11冊」)

 今回の件で一番モヤっとしていたのが、なぜあんなタイミングで、あんなやり方でMIKIKO氏を演出責任者から外す必要があったのか、ということだった。
 電通と、後任の元電通の佐々木宏氏が手柄を独り占めにしたかったから、という論調になっているが、いくらなんでもそんな馬鹿なことをするだろうか、と思ったのだ。
 
 なぜならMIKIKO氏のように、これだけの規模のイベントの演出をする人は、一人ではなく信頼できるチーム単位で動いているので、MIKIKO氏を外してアイデアをなぞろうとしてもまず無理な話だからだ。式のことを考えたなら、いいことはひとつもない。
 
 で、オレが考えていたのは、すでに各所で問題になっているオリンピックにおける電通などの「中抜き」の問題だった。
 
 これは一般論だが、もしも大きなイベントで組織的に中抜きをして金をチョロまかそうとしたら、さしあたり各部署のトップは、全て身内か息のかかった人間で固めるのが常道である。
 なぜなら、まかり間違って「中抜きの利害関係よりも、イベントの成功を優先させたい人」がいると面倒の元だからだ。最悪、告発されるリスクもある。
 
 そして残念ながら、そういう例は実際にある。
 公的なアートフェスティバル(実演も含む)が、マスコミ受けのする文化人を芸術監督として華々しく招く。初めのうちは「余分なことは我々に任せて、存分に腕を振るってください!」と始まるが、次第によくわからない委員会とか協会とかが関わってきて、会議を続けているうちに、どこへともなく金が消えていく。やがて「予算の都合で……」と規模がどんどん縮小されていくのだ。
 芸術監督が文句を言っても後の祭り。「話が違う! やってられっか!」と退任し、さらには内情を暴露することもある。
 
 そこで今回は、あるていど内容が固まったら責任者をすげ替えて「中抜き仲間」で固めた方が都合が良かったのではないか。そしてその判断に組織委員会が無関係ということはありえないだろう。
 
 ……以上は、特に根拠のない、ただの想像である。
 
 ただ、あの「台本11冊」を読むと、なるほど手柄を独り占めしようというのも十分にありそうだなと思えてきた。なにより「アーティストの換えなど、いくらでもいる」という代理店にありがちな考えがプンプン臭ってくるからだ。

 で、繰り返すが以下は「台本11冊」を読む前に、内部事情などはわからないなりに考察し、いちおう舞踊評論家の目から見たオリンピック開会式について書いたものだ。
 「台本11冊」の記事で「そうだったのか」や「やはり!」と思った部分もあるのだが、全部を書き換えるのも大変だし、適宜補足しながらいちおうアップしておこう。
 
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●二人の振付家について


 
呻吟した原稿をやっとの思いで仕上げ、オリンピック開会式の録画を見る。
これに関しては開催前から、組織委員会を初めとする運営側の腐敗臭あふれる醜聞・不手際が続いた。
「始まってしまえば国民はみんな忘れる」とばかりに強弁や責任逃れに終始していた組織委員会の姿勢は、オリンピックを応援する国民の気持ちを、かつてないほど冷え込ませた。

開会式や閉会氏は、海外ではアルベールビル大会のフィリップ・ドゥクフレ以降、ロンドン大会のアクラム・カーン、リオ大会のデボラ・コルカー、アテネ大会のディミトリス・パパイオアヌーなど、コンテンポラリー・ダンスの振付家が演出してきた。

しかし東京大会は。もはや誰も関わりたくないヤクネタと化してしまい、メジャーな人々は去って行った。絡もうとした人々も、散々中抜きされたあとのスカスカの予算に断念したのだろう。
穴埋めにコンテンポラリー・ダンスの皆さんが突っ込まれかたのように見えた。彼らが「便利に使える存在」ではなく、相応のリスペクトと対価を受け取って仕事ができたことを祈る。

今回Director of Choreographyの、平原慎太郎(開閉会式)と山田うん(閉会式)は、世間一般の知名度ではMIKIKO氏には及ばないだろうが、間違いなく日本のコンテンポラリー・ダンスを支える振付家である。
海外での実績もあり、なにより彼らは大人数のダンサーを抱えるダンス・カンパニーの主宰する数少ない存在である。国からの助成が極めて乏しい日本において、これは相当の実力がなければできないことだ。
今回のように多くの出演者に振り付ける必要がある開閉会式の人選としては妥当だったと思う。

もちろん主要なダンサーである中村恩恵、森山未來、熊谷和徳、辻本知彦、東京ゲゲゲイなど、いずれも高い実力を持っている。
問題は、その魅力が伝わるような「演出」であったか、という点だ。

本来なら数年かけて準備するものを、数ヶ月かヘタをすればそれ以下で準備しなければならず、おまけに数日前にまでゴタゴタが続き、こんな空中分解の状態では、通常の公演であれば中止になるレベルの話だ。

160億円の巨額の予算のうち、どれだけが現場に届いていたのか、とにかく予算が足らない、というのが現場の声だったと報じられている。
そんな渡され方をして、本来の力が発揮できるはずもない。
そのことを十分承知の上で、開会式を振り返ってみたい。

●なにがショボく感じさせるのか 「高さ」

文春に告発されている内容によれば、当初のMIKIKO氏の演出案がほとんど固まった段階で急に外されたという。
開閉会式制作チームの事実上の監督だった演出家・小林賢太郎氏のアイデアがほぼ使われていたようだが、平原慎太郎や山田うんなど、提案力のある振付家の演出も寄与したのか、現時点ではわからない。

ので、単純に映像で見た範囲でいうと、確かにショボい。
ショボく映るのは、振り付けの責任ではなく、演出、とくに「高さ」と「空間サイズの把握」「テーマと流れ」の問題が大きいと思う。

まずは決定的に「高さ」の演出が無さすぎる点である。
あれだけのだだっ広い空間では、人間が動いても二次元の点しかならず、ショボい印象になってしまう。
たとえば東京ゲゲゲイも上半身の動きが主体なので、あの広さでは魅力は伝わりにくかった。

立体的に見せるオブジェや映像が必要だが、今回一番高さが提灯だったろうか?
大きく高さのある(それこそねぷたとか)仕掛けと、地上のパフォーマンスが共に展開して「縦と横の広がり」を作るのが常道だが、それがほとんどなかった。

もちろんそれには高さのための機材が必要だが、とにかく今回は「予算がなかった」というのが現場の声だ。東京大会の予算の1/4のロンドン大会ではバンバンやっていたことなのだがな。
(※当たり前だが、「台本11冊」のMIKIKO氏案は様々な「高さ」の演出が凝らされている。)

●なにがショボく感じさせるのか 「空間サイズの把握ミス」

もうひとつは、「演出側がイメージした空間のサイズ」と、「オリンピック会場の空間のサイズ」が、全く合っていなかったことだ。

特に寒かったのは、木遣りからタップ、そして提灯が入ってくるあたり。引きで見た時の寒々しさがすごかった。

もちろんコロナ禍のため大人数のパフォーマンスは難しいというのだろう(その後の入場行進後の密度を考えたら、やりようはあった気もするが)。
しかし「こじんまり見せるなりの密度のある空間の作り方」はいくらでもあるのに、「通常の劇場サイズでやることを、そのままスタジアムにもってきてしまった感のスカスカさ」がダイレクトにきていたのだ。

ピクトグラムは確かに面白かったが、やはり小ネタだ。
ああいうのは、大きく空間を使い切ったドーン!という見せ場の後にやって、はじめて「大きな場所で小さなことをやる面白さ」が成り立つのである(コンドルズがよくやる影絵や人形劇のような)。

あれでは、見ている人は「この演出チームは、小さくて細かいことしかできないんだな」と思われてもしょうがない。

●「振り付け」は、動きよりも空間が重要、そして「強いソロ」

振付家というと、「身体の動きを創る人」と思っている人は多いだろう。
じっさい商業的にはそういう仕事のほうが多い。

しかしコンテンポラリー・ダンスの場合、単に動きだけではなく「空間そのもの」を演出していくことが「振り付け」だという考えが根底にある。
空間演出に関われたのか、ただ「動きだけ」を求められたのかで、導かれる動きも変わってくる。

動きの魅力を伝えるには「強いソロ」や「大量の群舞」「映像による拡大を見越した演出」などの工夫が必要になる。

その点で森山未來のソロは見事だった。
「新型コロナで亡くなった方々」と「オリンピック開催期間中になくなった方々(ミュンヘン大会でテロリストに殺されたイスラエル人等)」を鎮めるような五体投地。
『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』で演じていたザハの鎮魂を兼ねたのは「裏テーマ」としても、「コロナ禍に開催する五輪」で踊るアーティストとしての矜持を示した。

なにかというと「アーティストが政府の片棒を担がされる」みたいなことを言い出す奴がいるが、アーティストの存在の示し方はそんな子供じみた単純なものではないのだ。

ただ流れた解説には、「ん?」と思った。
組織委員会が掲げていたはずの「復興五輪」ならば、東日本大震災など「自然災害の被害者への追悼」があってしかるべきではないのか。
おりしも中国やヨーロッパで水害で深刻な被害が出ている真っ最中だったのだ。
森山のイスラエル留学などは五輪にも海外の視聴者にも関係のないことで、なぜここでことさら? あるいは毎回必ずやることになっているのだろうか。

結局、開会式にあまりにも復興要素が入っていなかったので、あわてて福島の子供達を登場させたが、出番が夜中になってしまい、かえって顰蹙を買っていては世話はない。

また熊谷和徳はアメリカでまさにトップクラスの評価を受けるダンサーだが、同時に実家の仙台が震災で被災しており、その復興に尽力していることくらいは説明してもよかったろう。組織委員会には情報がなかったのだろうか?

おまけに肝心のタップの音を集音がうまくいってないのか、熊谷本来の魅力が伝わってこなかった。通常の公演でも板や足首にマイクをつけて音を拾うし(なんならエフェクトもかける)、できないはずはないんだが。
シドニー大会ではタップドックスの連中が、客席通路全部にタップダンサーを配して会場全体にタップの音を鳴り響かせた。無観客の今回ではしょうがないが。

(※「台本11冊」によると、なんとIOCが「復興五輪」を拒否したとあり、絶句した。同記事によると『世界で困っているのは、東北だけではない。特定の震災を限定的に取り上げるのはダメ』と言われたそう。それであれか、バッハ氏は望まれもしないのにノーベル平和賞にアピールできる広島へは出向き、福島へは行きもしなかったのか。私物化にもほどがある。
だいたいこれまでの過程で、日本が「復興五輪」を掲げることはIOCも報告を受けていたはずだ。開催国の国民の同意を得られる数少ないスローガンだったのに、開会式で拒否するとは、ホント舐めきってる。日本側も「自然災害の被害者のために」など粘り強くできたのでは)

◎追記:これは逆かもしれない。「復興五輪」を認めてしまったら、バッハ氏はとうぜん「なんで福島に行かないで広島に行ってるわけ?」と突っ込まれるだろう。「私マジでノーベル平和賞を狙ってるんで。福島は自然災害だから、平和賞の役に立たないんすわ。やっぱ戦争に関係する広島じゃないと」というホンネを言うわけにもいかないだろうしね。


●なにがショボく感じさせるのか 「演出テーマと流れ」


さてショボく感じさせた最大の理由は、式全体を貫く流れがなく、明快なメッセージが感じられなかったことだ。
そのため各部は良くても、売れ残り品を突っ込んだ福袋のような雑多感しか残らない。
けっきょく何のための式だったのか。

しかし演出の意図も、全く無いわけではない。
森山未來のソロもそうだが、会場いっぱいの映像と一体化した中村恩恵出演(振り付けもか?)のダンスは、赤い糸がダンサー間に張り巡らされ、新型コロナという「病気」と、生活やアスリートの行動が縛られる心情を描いていた。

開会式の中では、広い床一面の映像も効果的に使い、空間の広さを効果的に利用できた数少ない例だ。少し引いた距離で映されたときの、群舞の振り付けのクオリティの高さ、空間との一体感はさすがだった。

ただやはりアイデア自体は「劇場くらいの広さに最適なサイズ感」だったこと、重篤な肺炎を引き起こす新型コロナが、血液のイメージと直結しづらい点などが伝わりにくくしていたかもだ。

●「大量の群舞」

巨大すぎるステージでは、大人数がユニゾンで揃って踊るのが効果的である。
今回はコロナ禍のため、それが難しいのはしょうがない。

しかしもうひとつ、コンテンポラリー・ダンス界は、「大人数が揃って踊って陶酔をもたらすダンスの原始的な魅力」が、かつてナチスドイツやカルト宗教のプロパガンダに利用されてきた過去を反省し、非常に慎重である、という点も指摘しておきたい。

「バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第5回〉群舞とユニゾン〜強すぎて危険な魅力、その光と影〜」
https://balletchannel.jp/9172

『ダンス・バイブル-増補新版-』(河出書房新社)


オリンピックはどうしてもナショナリズムの高揚、国威発揚の場としてのものになりがちだ。コンテンポラリー・ダンスの振付家は、独裁国のマスゲームのように、個人を集団に埋没させるような演出には、本能的に慎重になってしまう。

だからこそアルベールビル大会のフィリップ・ドゥクフレは半分舞台美術のような奇妙な衣裳を大勢に着せてダラダラと行進させたのだし(この演出はしばらくマネされた)、アクラム・カーンは強烈なソロのシーンを作って見せた。

もちろんコンテンポラリー・ダンスの振付家に大きな仕事が向いていないというわけではない。

じっさい多くのオリンピック開会式に関わってきているのは述べた通り。
いわば「懐石料理をホテルのパーティ会場で出す」ようなものなので、繊細な演出を量産に翻訳する、このサイズの空間と振付家をつなげられる人がチームにいればいいことだ。

さらに近年ではオペラの演出や劇場の大きなカンパニーに振り付けることも増え、クリスタル・パイトやアレクサンダー・エックマンなど「新しい群舞の形」を作り出している世代が出てきている。

●「それそれ!」感のなさ

イギリスなら007にモンティ・パイソン、ロシアならばクラシック・バレエなど、海外から見ても日本といえば「それそれ!」という要素が乏しかった。
日本好きの外国人は半端ない知識があるし、若い人たちもアニメやゲームを通して日本の古典に触れていたりする。

日本の歴史や、万葉絵巻や、個人的には、日本を代表するパフォーミング・アートである舞踏を入れてほしかった。静かな山海塾でも、大駱駝艦の金粉ショーでもいい。
多様性というのなら、アジアから学んだ稲作やお茶や漢字といった交流、あるいは先住民であるアイヌや琉球の文化に触れてもいい。

(※「台本11冊」によると、MIKIKO氏は演出案に合わないからと海老蔵の出演を断ったとある。だとすると、その点は疑問だ。開会式は、「その国の歴史や文化を世界に示すシーン」が必ずあるもので、歌舞伎が登場しなかったら、それはそれで違和感があっただろう)

また疫病退散を願って、相撲取りが出て四股を踏んでもらっても良かった。
相撲も海外では世界相撲選手権大会が行われるくらい有名だし(海外のCMとか格闘ゲームとかトラックのロゴなんかにも出る)、何より四股は鎮魂や悪霊退散の神事の側面もある。
出演となれば唯一の横綱である白鵬だろう。彼がモンゴル出身であることに文句をいう人がいるかもしれないが、これこそが多様性だし、かれは国籍を取得して法的にも日本人なので、なんの問題もないはずだ。

そもそも選手入場のプラカードが漫画の吹き出しとか、スタッフの衣裳が漫画の絵柄とか……
雰囲気のいい寿司屋でうまい寿司を食べた後に缶コーヒーを出されたような気分だった。
いやたしかに日本の文化だけれども。この場所でこのタイミングで、これなの?
結局、政府が莫大な金と年月をかけてきた「クールジャパン」のなれの果てを見たような思いだ。

●「イマジン」の違和感が半端ない

前半は多少なりとも「今大会の意義」を考えたシーンを作っていたが、決定的な違和感を感じたのが後半で流れた「イマジン」だ。
海外の歌手の映像を採り入れて作り込んでいることから、小山田氏の件とは無関係だろう。
ロンドン大会でも使われたが、それは英国が誇るジョン・レノンの曲だからわかる。
しかし東京大会で、この流れの中での「イマジン」の必然性は感じられただろうか(まさかジョンの奥さんがオノ・ヨーコだから!? まさかね)。

日本もコロナも復興も関係ないけど「これを出しておけば感動するだろう」ぐらいの安直さしか浮かばない。だいたいさっきまで国名を書いたプラカードを持って入場したあとに、「国や国境のない世界を想像してごらん」なんて歌を流しても「いや、いま流す歌じゃないだろ」という違和感しか。
Queenが日本のファンのために日本語で作って歌ってくれた『teo toriatte』とはワケが違うのである。

(※驚いたことに、「台本11冊」によれば「イマジン」はIOCのゴリ押しで入れられたのだという。今後全ての大会で流したいからだそうだ。そりゃ違和感を抱くはずだ。また過去数回、使用されていたという。
しかしダメダメな演出だが、少なくとも日本の演出チームが自分たちで考えたものだと思っていたよ。彼らなりに考えて必要だと思って入れたものだと思っていた。そうではなく、大会の演出とは脈絡もなく、押しつけられたものを入れただけだったとはオレのヒザもがっくり落ちてしまった。「オリンピックは国同士の競争ではなく、個人対個人の競争だ」という本来の意義が最も空しく感じられる現代オリンピックのIOC、そして巨大イベントであるが故に日本の腐敗した構造が明るみになった組織委員会や政府の醜態を、「イマジン」の感動で糊塗できると思うなよ、と怒りすらわいてきた。歌に罪はないのだが)

●閉会式は……

以上、演出の問題はやはり組織委員会の進め方と巨額の予算が現場に届いていないらしいことに集約できそうではある。
現状のコロナ禍の感染爆発をみるに、もはやオリンピックを続けられる状況ではなく中止するべきだと思うが、もしも進んだら閉会式がやってくる。
Director of Choreographyの平原慎太郎や山田うんが自分で納得できる環境で仕事をできることを祈っている。
ただメダル獲得で多少なりとも盛り上がるのか、開会式よりもさらに冷え切った気持ちで見ることになるのか、どっちだろうか。

(みんなの反応)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/nori54takao/n/n72a90c76b050


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