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祈りの対象と効果について

 少し前に『「鰯の頭」に僕が求めているもの』という記事で、祈りに対する僕なりの捉え方を綴った。

 ここに書いてあるとおり、祈る事で感情のコントロールが叶い、その日一日を大きなブレなく過ごす事ができるという見解は変わらないのだが、やはりそれでも、日によっては軽いダークサイドに陥りそうになる事は正直否めなかったりもした。

自分がそのような心境に陥る理由が最近ようやっと明確化しだしたので、分かち合うつもりで書き残しておきたい。

 ダークサイドに陥りそうな時ほど、僕はただ僕自身の為だけに祈ってしまっていた気がする。

なんとなく、特にここ最近は自分自身の事だけを頭の中で訴え、知らず知らずのうちに自分だけが幸せな気持ちを維持できるようなマインドで祈ってしまっていた。

思えば、他者の幸せも同時に願っている時の方が、いろんな事がスムースに回っていた事を思い出した。


 嘘のような話だと思うので、自分なりのロジックで頑張って説明してみようと思うが、おそらく、自分自身の幸せだけを願う事で、「他人を蹴落としてでも蜘蛛の糸を掴みたい」というような俗っぽい感情が、知らず知らず頭の中に蔓延してしまっていたのではないか。

そうなると想像力にも偏りが生じ、自分にとって都合の良い展開を前提とした思考に徐々に頭を汚染されていく。

結果として、コミュニケーションにおいて相手に過剰な期待を寄せてしまったり、コントロールできない環境に対しても割り切れず焦りやストレスを抱える…といった現象が起きてしまい、上手くいかない原因を、相手や外側に対し無意識に向けてしまっていたのではないだろうか。

祈りの主体テーマが自分にとっての「幸せ」のみである以上、そう感じるためのハードルを勝手に上げてしまう事が歪んだ完璧主義を生み出してしまい、思考の幅がどんどん狭くなるとともに、コミュニケーションの中で相手の都合を想像したり受け容れる余地を設けなくなってしまっていたのだ。


 結論、他者の幸せを祈るという行為は、他者の都合を想像する事だと思う。

試しに久しぶりに「自分を取り囲む人たちが幸せでありますように」という言葉も交えて祈ってみたところ、心の中で自意識の外壁がふわっと溶けていくような感じを覚え、精神的な余裕が生まれた。
あ、これだったんだな、と自分の中で深い納得を得ることができた。

内側の器を満たすにもバランスがあり、自我よりも大我をもって満たす事が重要なのだ。

 しかし、祈りを考えた人はすごいなと思う。こんなに即効性があり、中庸感情を維持できるコスパの高いライフハックはない。

今日はこんなところで。

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