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曲と人格

 世の中に出ている過去の情報が、時を経て大きな足枷となる場合がある。特に有名人は、どうしても過去に書籍・インタビューなどで思想のかけらを記録されることが多いだけに、当時の発言が巡り巡って強いブーメランとなり喉元を突きつける場合もある。

小山田圭吾氏の一件は、現状それの最たるものだろう。僕が知る限り、日本におけるキャンセルカルチャーの初ケースと言ってもおかしくないくらい、強い反感感情が世相を賑わせている。

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 「曲と人格を切り分ける」ことは、言うのは容易だがとても難しい。僕自身2000年代後半くらいに彼の例のインタビューをネットで初めて知り、コラではないのか?と思うくらい目を疑った記憶がある。その時は非常に強い動揺と憤りと人間性に対する失望を覚えたが、音楽自体は僕の人生に影響を与えるほど好きだったので、とてもとても複雑な思いを抱えながらも聴いていた。

「曲と人格を切り分ける」を言い訳に、どこかで「自分ごと」ではなく「他人ごと」と無理やり頭を割り切らせていたのかも知れない。でも、やはり絶えず頭の片隅にはネガティブなイメージが残っており、今もなお消えることはなかった。僕みたいな心境で彼の音楽を聴いている人は案外多いのではないだろうか。

文章(というか吐き出した言葉)はそれだけ強烈な印象を残し続けるのだ。

サブカルチャーの片隅でひっそりと書かれた軽薄な記事文が、四半世紀を経て日本を揺るがすほどのカウンターとなっている。本人だけではなく、本来記事を載せる判断をしたもの、誇張(本人いわく)なども含めて執筆した記者にも同様の責任があるが、現時点で観測する限り、やはり小山田氏本人が一番の非難を浴びている構図となっている。

本人から直接この話題に対して謝罪文が出た、という事実も、これまでのスタンスやキャリアを見ている側からすると非常に印象深かった。

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 有名人だからどうとか関係なく、今は発信したことが良し悪し関係なく半永久的に残される時代であり、決して有名人だけの問題ではない、と今回のケースを見て逆に怖さを覚えた。

仮に自分自身に置き換えてみても、やはり未来永劫完璧でいれる自信はないし、特に若年期は大小あれど色々過ちは犯すものだということもわかっている。

当時の人格と今の成長ぶり(どこまで立証できるかわからないけど)にどれだけ差があれど、一つ掘り起こされるとすぐにドロップアウトの対象になってしまう風潮は、これから先よりきつくなっていくのだろう。

彼に対してとても複雑な気分は変わらない。

過去何度も定期的に炎上した話題ではあるが、今回オリンピックの音楽に携わることとなり、より一般層の認知が進んだこと、最近のいじめ自殺や殺人の内容よりもケースが圧倒的に酷すぎたことで看過できない感情を皆が持ったこと、いろんなことが重なりこうした事態となっている。

 まとまらないが、これに対する自分の気持ちとしては、やはり中段で書いたグラデーションな感覚。それのみだ。楽曲は日本の音楽文化をある部分で牽引するくらい研ぎ澄まされたものであることは間違いない。だからこそ、とてもきつい状況かも知れないが、真摯にいて欲しいと切に思っている。

今日はこんなところで。

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