「静か」であることへの覚悟
静かな空間を好む度合いが、この数年でより一層増した気がする。
静寂は、休符と一緒で、「ない」ものではなく「ある」もの。
まっしろな画用紙にあえて白い絵の具を塗るように、大切な要素であり、ひとつの繋がりなのだ。
だから、隙間を別の色で埋めるのではなく、そのままが一番美しい。
目を瞑ると、まっくらではありながらも「漆黒」ではなく常に何かしらの色が見えるように、自然が作る静寂も、実はさまざまな音に溢れ、とても素晴らしいと思っている。
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何でもそうだけど、対になるものがあるから、対象が存在感を増す。
「動」があるから「静」を感じることができるのだ。
静寂も、対となる喧騒がないと、より色濃く感じる事はできないし、当然喧騒を感じる事が心地良いときもある。
バランスとバイオリズムに正直になること。
この対比をわかっていると、日常のノイズもあまりノイズ化せず、常にひとつの繋がりとして捉え、一定の感情を保っていられる。
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「声をあげる」「何者かでいること」ことを強要されているような圧力を感じる時ほど、この静寂を大切にしなきゃな、と思う。
静か、は必ずしも怠惰ではなく「選択」として採り続ける人もいるのだ。
今日はこんなところで。
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