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時間と距離のバグ

 幼少期を佐賀県で過ごした。

僕の住んでいた地域が特にだだっ広い田舎ということもあり、徒歩圏内に駅もなく、市内に出るときや親戚の家に向かう時など、移動手段はもっぱら車だった。

窓越しに映る景色景色の断片を思い返すたび、すごく長い距離を車に揺られながら運ばれていたような記憶がある。

大人になった今、現在は大阪に移住、移動手段はもっぱらクロスバイク。自転車の性能も手伝って、結構な距離もこの一台でわりと短時間で行ける。

何となく、体感距離も腹時計のごとく自然に測れるようになった。

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 ふと思い立って、Googleマップ を立ち上げ、当時住んでいた町と大阪の縮尺を見比べながら、親戚の家までいったい何キロぐらいあったのかを調べてみた。

なんと、たった数キロ程度だった。あれほど遠く感じていた移動距離が、今大阪でガンガン走っている距離よりも圧倒的に短い。佐賀市内までの道のりも、改めて測ってみると、馴染みの取引先に向かう程度の距離だった。

子どもの頃のサイズ感だと相当遠く感じたのに、今自分の中で根付いたサイズ感だと、とるに足らない近距離という現実に、改めて驚いた。

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 "ジャネーの法則" という、時間感覚にまつわる一つの法則がある。

生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例するというもの。年を取っていくにつれて、1年の長さの比率が小さくなり体感時間が短くなること。

これは有名で、おそらく皆の中でも「あるある」な法則だと思うが、僕としては、時間と同じように、距離についても同じ法則が通るんじゃないかと思っている。

何となくすべての事象において感覚は相対的なものであり、生きてきた年数、増える選択肢、思考、経験値などが全てミキシングされた結果、加算方式に反比例する形で「感覚に対する間隔」は減算され、狭く短くなっていくものなんだろう。

さらに言うと、子どもの頃広大に感じたもの、永遠に感じたものを今の視点で見つめると、必ずや等倍ではなく変倍、いわば縦横比を変えた「デフォルメされた世界」として目の前に提示されているような感覚にも囚われる。

それは、数十年ぶりに一度佐賀の実家に訪れたとき、家の中が「こんなに狭くて天井低かったっけ?」と感じたことに起因する。大げさに言うと、ドールハウスのような印象。あれほど遠く思えた小学校への通学路も、改めてたどってみたら、驚くほど一瞬だった。

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 時間や距離の記憶は、成長と共に歪む。一種のバグ感覚。

果たして、当時の感覚がバグっているのか今の感覚がバグっているのかはわからない。

でも、確かに言えるのは、子どもの頃感じていた『距離バグ感』の方が俄然面白かった。

今日はこんなところで。

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