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5歳と7歳の児童が殺人犯? 抑圧された記憶と虚偽自白、スウェーデンの冤罪事件

ケヴィン事件の発生

「5歳と7歳の兄弟が4歳の子どもを殺害しました。彼らは自白しています」
 こんな警察発表を聞いたあなたはどう思うだろうか? 「まじか?」とまずは耳を疑うだろう。さらに「年齢が低いために裁判にはかけません。これから兄弟は保護観察下に置かれます」と続けば、「いやまて、真相究明しなくていいのか?」とも。
 だがこれはスウェーデンで1998年に起こった実際の事件なのだ。
 1998年8月16日、4歳の男の子ケヴィンの死体がアルヴィーカという町の湖畔(トップ画像。出典)で発見された。最初は溺死と思われていたが、やがて警察はこれを殺人事件として捜査しはじめる。 
  そして2ヶ月半後の11月2日、地元警察は記者会見を開き、上記の発表をおこなう。
 地元の社会福祉局は兄弟を両親から引き離し、保護観察下に置いた。社会福祉局は兄弟を養子に出すつもりだったが、引き取り手はいなかった。子どもたちは親元に戻ることができたが、家族への監視は続いた。のちに家族は逃げるように他の町に引っ越す。

 事件から19年経った2017年、この事件を疑問視するマスコミの告発が続いた。まず大手新聞ダーゲンス・ニューヘーテルの2017年4月26日の記事。そして5月3日には公共放送SVTでドキュメンタリー番組『ケヴィン事件』が放送された。

スウェーデン国内のみ視聴可

 ジャーナリストのダン・ヨセフソンがこの番組の制作を引き受けるまでには、また別の冤罪事件があった。

トーマス・クヴィック事件

 セーテル精神病院に入院中の患者トーマス・クヴィック(1950年生まれ)が、過去に犯した殺人事件を次々に心理セラピストに告白した。1994~2001年の7年間で8件の殺人事件で有罪判決を受けた。だが彼は2001年に今後は警察とは関わらないと宣言する。
 2008年3月、ある冤罪事件を扱ったジャーナリストのハンネス・ロースタムは、次にクヴィックの”自白”に取り組むことになる。そして2008年12月、SVTでドキュメンタリーを放映し、「自白は警察やセラピストによって作り上げられたものだ」と指摘する。この内容はスウェーデンで書籍になり、邦訳版も出ている。

田中文 訳、早川書房、2015

  クヴィックはなぜ30人以上も殺したと”自白”したのか。”過去の犯罪”の告白を始めた1992年には退院が迫っていたが、社会で暮らしていくことに不安を抱えていた。また、凶悪犯になれば病院スタッフの畏怖の念を勝ち得ることも知っていた。その結果、向精神薬がもらいやすくなることも。

 問題だらけの捜査体制で、弁護士までもが検事や警察の味方だった。何より問題だったのは、クヴィックに関わった心理セラピストやその「師」、そしてストックホルム大学の心理学部教授(当時は講師)までもが「抑圧された記憶」を過信していたことだ。
 --殺人を犯した記憶は辛いので、それに蓋をしてしまう。なかなか思い出せないのだから、尋問官はうまくそれを引き出すように手を貸すべきである。現場検証も、警察は殺人が起こった当時のままを再現し、容疑者が記憶をたぐり寄せられるよう協力すべきであるーー

 これでは「誘導尋問しろ」と言っているようなものだ。クヴィックの供述は最初のものから徐々に内容を変え、最終的には警察が納得する供述内容になった。「警察しか知らない事実」も、尋問官が「君は今、***という言葉に反応したね」という聞き方をして、クヴィックに漏らしていく。

 2008年春、ロースタムはクヴィック事件の調査を開始する。どうしてもクヴィックが犯人だとは思えないロースタムは、ある面会の際にこう問いかける。「本当にひとつも殺人を犯していないのなら、あなたは今、人生で一度きりのチャンスを手にしていることになる」
 ロースタムを信用しはじめていたクヴィックは、今まで自分は嘘をついていたことを認める。そしてドキュメンタリー番組の中で「自白を撤回する」と宣言する。
 その後、有罪事件の再審がおこなわれ、2013年までに8件とも無罪が確定している。

 私の推測だが、世間のムードはクヴィックが有罪になっても「本人が積極的に自白してるんだから、別にいいんじゃないの? どっちみち精神病院にいるんだから」というものだったのだろう。しかし、クヴィックが有罪判決を受けるということは、真犯人を野放しにすることになる。また、クヴィックは勝手に共犯者を指名し、警察はここでも事情聴取という名の高圧的な尋問を彼らにおこなう。一歩間違えば、本当の冤罪被害者が出ていたかもしれないのだ。

『トマス・クイック-北欧最悪の連続殺人犯になった男』は、スウェーデンの裁判所の問題点(裁判官は調査記録を読まない)や「なぜ人は簡単に”自白”するのか」という問題にも触れている。私は驚きながら通読した。

 さて、ジャーナリストたちの話に戻ろう。ハンネス・ロースタムはジャーナリスト大賞受賞など称賛を受けるが、ドキュメンタリー番組が放映されてから3年後の2012年1月、56歳の若さで病死する。
 友人だったダン・ヨセフソンは残された資料をもとに、セラピーによってクヴィックの”記憶”が作り上げられたことを告発する本を2013年9月に出版する。

『嘘をつくのをやめた男』2013
副題の一つは「トーマス・クヴィックを創った女」

ケヴィン事件--無実を勝ち取る

 クヴィック事件の捜査陣の一員だったのが、先述のストックホルム大学心理学部教授スヴェン・オーケ・クリスチャンソン。やがてダン・ヨセフソンのもとに通報が寄せられる。「クリスチャンソンはケヴィン事件にも関わっているぞ」。ダン・ヨセフソンは2015年春、ケヴィン事件のドキュメンタリー番組の作製に着手する。綿密な取材のあと、2年後の2017年5月に3部作として放映された。

 5歳と7歳の児童に対する取り調べはビデオで記録されており、ドキュメンタリー番組の中で観ることができる。兄弟は個別に取り調べを受け、その回数は”自白”するまで31回もあった。ときには数時間にわたることも。だが、弁護士はまったくつかなかった。尋問官が複数になることもなり、執拗に質問を繰り返した。児童心理学の専門家が同席することもあったが、なぜか尋問の内容には干渉しなかった。

 クリスチャンソン教授のアドバイスは、今回もこうだった--犯罪の記憶はなかなか思い出せないものですから、時間をかけて思い出させてあげましょうーー。

 ケヴィン事件もクヴィック事件も、容疑者のアリバイを保証する証言が、検事や裁判所に提出する調書から削除されていたことがのちに判明する。警察が意図的にそうしていたのだ。ぞっとする話である。

 また、ケヴィン事件では警察の主張と違い、兄弟は”自白”などしていなかったことも判明。2017年5月のドキュメンタリー番組放映のあと、この事件の再捜査がおこなわれ、2018年3月27日、兄弟の無罪が確定した。

 無実の罪を着せられた兄弟は「子ども時代を返してほしい」と国を訴えるが、2020年7月に「国に対する損害賠償請求の時効は10年」という理由で却下される。
 私はこれを聞いていたたまれない気持ちになった。これでは、長く苦しんだ者ほど救済されないことになるではないか。

 ところが2022年3月、法務大臣が兄弟への謝罪と各人へ100万クローナ支払うことを表明した。こういうやり方を Ex Gratia(好意により)というらしい。恩赦みたいなものだろうか?
 金額は請求額の10分の1だが、兄弟は「金額は問題じゃない。国が責任を持って謝罪してくれたことが重要だ」と述べている。

(文責:羽根 由)

 

 

 
 






 



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