フィンランド大統領選と『エジプト人シヌヘ』
北の果てのこの地では、目に見えて日が長くなり、朝は小鳥のさえずりが冴え冴えと響き、心浮き立つ季節の兆しが感じられるようになりました。
大統領選が終わった…
前回、私はヘルシンキ・ブックフェアに関した投稿をしましたが、今日は徒然に話を進めてみたいと思います。果たして着地点は見つかるか...。
ではまずフィンランドで六年に一度の大統領選が戦われたお話から始めますね。
昨年秋から翌年一月の国民投票に向け、選挙戦がスタートし、各候補者は実に様々なイベントに登壇し、全国を縦断して有権者と雑談し握手をし、セルフィ―を撮る……。
そしてそれらイベントの中にはブックフェアも入っていました。ここで最初に戻ります。
昨年のヘルシンキ・ブックフェアの目玉のイベントの一つと言われた、金曜の大統領候補者たちの登壇では、「権力(Valta)」がテーマでした。
各候補者に、「権力に関係する本、読んで考え方が変わった本をそれぞれ一冊」と尋ねたところ、以下のような本が。
●最終的に大統領に選出されたアレクサンデル・ストゥッブ氏はニッコロ・マキャベリの『君主論』(一人の人間に権力が集中する事の恐ろしさ)とネルソン・マンデラ『自由への長い道』
●極右政党と目される真正フィン人党主、国会議長でもあるユッシ・ハッラ=アホ氏は両方の質問に”皆の時間の節約のため”、ジョージ・オーウェルの『1984』
●中央銀行総裁オッリ・レーン氏は『無名戦士』も著したヴァイノ・リンナの代表作『ここ北極星の下で』(未邦訳の三部作)
●ビジネスマンから政治家に転身したハリー・ハルキモ氏は、下調べに入念なことで知られるミステリ作家イルッカ・レメスの作品を挙げ、これは恐らく観客にも知名度高い一冊ではないかなと思いました。
この時間帯、私は電車でヘルシンキのブックフェアに向かう往路の電車内だったため、オンラインで視聴していたものの、音声通信状態が途切れがちになり、後半は誰の挙げたものかは聞き逃しました。以下が他の候補者の挙げた本だったようです。
●ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』
●フィンランド人スポーツ医師としてF1等で有名だったアキ・ヒンツァの本
●ウィリアム・マクニールの『世界史』など
何をどう選ぶか、で候補者の人となりが垣間見えて面白かったです。
そして「本」ネタはこれで終わらず、全国最大日刊紙Helsingin Sanomat紙社説部が十一月に始めた企画が、各候補者に「フィンランドについて、フィンランド文学を通じて語って欲しい」というもの。(真正フィン人党のハッラ=アホ氏のみ不参加)各候補者の選んだ本は以下の通りですが、読書について、その重要性が改めて指摘される中、政治家にそれを語らせて内面を知る意味でもぜひ今後の国政選挙でも続けて欲しい良企画だと思いました。
ここに興味のない方はリストの最後の行だけチラ見しておいて下さい(最大のヒントです!)
◆社民党 ユッタ・ウルピライネン(党首、財務大臣など歴任、現EUコミッショナー)トーベ・ヤンソン『ムーミン』シリーズを、お子さんに読み聞かせしたきっかけから。さすが元・国語教師、自身の主張にスムーズに繋げるまとめ力に唸りました。
◆国民連合党 アレクサンデル・ストゥッブ(元首相等、閣僚経験者)ソフィ・オクサネン『粛清』(早川書房 2012年)かつ最新作、私もブックフェアでサインをもらった『(仮)同じ川の流れに』も言及、アカデミアにもそれなりに長いこの方も文章・説得力に定評があります。
◆中央党 オッリ・レーンはブックフェアと同じヴァイノ・リンナ『ここ北極星の下で』え...同じですか...。どっしり落ち着いて教養ある方なのに惜しい。タンペレの書籍イベント登壇でも同じ本挙げておられました。
◆左翼連合 リー・アンデション 三十代半ばで前内閣では教育相も務め堂々と論陣を張るかなりの切れ者、彼女はマルタ・ティッカネン『世紀最大の愛の物語』(未邦訳)を。
◆キリスト教民主党党首 サリ・エッザヤ 頭脳明晰、誠実で周囲から信頼厚い元競歩女子世界一位の選手。現・農林相。タンペレのイベントでは聖書を歴史・文化的観点から挙げていましたが、HS紙では讃美歌集にも所収のウーノ・カイラスの詩『フィンランド人の祈り』
◆Liike Nyt党所属のハリー・ハルキモ (氏が保守党から脱退後立ち上げた小規模新政党。敢えて訳せば「今こそ動きを!」か)ヴァイノ・リンナ『無名戦士』
◆国際問題研究所の代表でウクライナ戦争からテレビ露出急増で知名度を上げたミカ・アールトラ(無所属)はユハニ・アホの『ユハ』
(未邦訳ながら、アキ・カウリスマキ監督により1999年本作を緩やかに底とした『白い花びら』無声映画化あり)
◆前回の大統領選でも立候補し、今回三度めの正直をかけた緑の党のペッカ・ハーヴィストは、外相経験者でもあり手腕の面で遜色ないものの、ゲイ(パートナーはエクアドル出身の美容院を経営する方)であることから有権者の支持が取り込めなかったのではと言われますが、彼が選んだのがミカ・ヴァルタリ『エジプト人シヌヘ』。
大統領就任式
そして今月、三月一日に大統領就任式がありました。
二期、十二年を勤め上げ絶大な支持を誇るニーニスト大統領とイェンニ・ハウキオ夫人(トゥルク・ブックフェアのプロデューサーも最初の数年務めた詩人でもある)から、新任のストゥッブ氏と、英国人(フィンランド国籍取得)で法律家としてバリバリ稼いできたスザンネ・イネス=ストゥッブ夫人へとバトンが渡され、晴れやかに国民の前にも姿を現しました。新・旧大統領は主権を持つ国民の代表が集まる国会にも招かれ、演説をします。
国会議長である真正フィン人党のハッラ=アホ氏が、新大統領に対しての演説で、「あなたはこれから多忙な日を送る。前のように週に一冊本を読了するのは難しくなるだろう(ここでストゥッブ氏、破顔)ー(中略)ーまた、以前あなたはフィレンツェ出身の偉大な政治家であるマキャベリの『君主論』を挙げ、一人の人間に権力が集中することの危険性を述べたが、この本はフィンランドの大統領パーシキヴィやケッコネンのベッドサイドにもしばし置かれ、繰り返し読み返されたフィンランド国家にとっても為政者が重視した著作でもあった」と言及し、(まさにブックフェアからのネタですねぇ!)ストゥッブ氏、再び表情豊かに反応していました。(動画リンクを該当部分記載の上、文末に貼りますのでご興味おありの方はご覧ください)
このやりとりは、お仕着せの演説と違い、半年間数百回におよぶ討論番組やイベントで顔を合わせ、互いの主義主張を暗記するほどやり合ったからこそ生まれる関係性と相手への尊重を示す本当の対話を想起させ、気持ちの昂りを感じたものの一つです。
真打ち登場!『エジプト人シヌヘ』
そして本題です!
もうお気づきでしょう。結果的に選挙に敗れたペッカ・ハーヴィスト氏(緑の党)がHS紙寄稿で挙げた『エジプト人シヌヘ』はみずいろブックスさんと共にこの二年半訳してきた、フィンランドを代表する作家ミカ・ヴァルタリといえば、で最初に挙がる作品です。この企画でも絶対に誰かが取り上げる筈、と信じていたので「しめしめ」と嬉しい思いでした。
それだけ今の時代にあろうとまったく古びない、舞台こそ古代エジプトであるものの、その設定を見事に活かした人間への普遍的な愛を深く感じさせる、不朽の名作であるともいえます。
そしてやっと、皆様にご報告できる段階となりました。今月初めにSNSでは発信していますが、こちらにも。四月半ば頃についに発売となります。(現在の予定では四月二十日頃)
みずいろブックス (監修:古代エジプト美術館ファウンダー
菊川匡 博士、編集協力 上山美保子)
私にとっては、長い道のりでした。取り掛かった頃、そして一昨年の九月にフィンランド・センターの文学サロンに登壇した頃、そして同年十一月、ヨーロッパ文芸フェスティバルにフィンランド・センターからご招待頂いた頃は、まだ一次訳も真っ只中、上巻すら終わっていませんでした。ある意味、本当の恐ろしさを理解せず、はしゃぎ気味ですらあったかもしれません。
あの段階でよく偉そうなことをいったものだ、と今思い出しても恐ろしいです。やっちゃったんですけど…… 当時、プレッシャーを感じながらもなんとか盛り上げねば、と準備したことを思い出します。大雨の中、聞きに来て下さった友人・知人、初めてお会いしたSNSの相互フォローの方々、「応援しています」とお伝え下さった方、その後も折に触れての温かいお言葉、本当に有難うございました。多くの方々のおかげでなんとかここまで辿り着くに至りました。それ以外には言葉が見つかりません。
そこからさらに一年半、推敲に時間とエネルギーを注ぎ、編集作業でも本当に一生足を向けて寝られないほどのご迷惑をみずいろブックスさんにおかけしました。言葉を変えれば、真に得難い経験であったと思います。今月初め、訳者あとがきを提出し、校了と伺ったときには、何とも言えない空虚な心持ちを覚えました。
これが世にいう「ロス」というものなんですね。
どんな話?
ここで、もう一度おさらいをさせて下さい。そもそも『エジプト人シヌヘ』とは?
古代エジプト、誰もが一度は耳にした事があるであろうツタンカーメンの時代(具体的には、多神教から一神教への宗教改革を断行したファラオ、アクエンアテン(=アメンヘテプ四世)とホルエムヘブの間の新王国、十八王朝)の史実にも登場する人物らを配しながら、架空の主人公で医師であるシヌヘが伝説の叙事詩「シヌヘの物語」のように諸国を旅し、様々な経験をしてエジプトに戻ります。しかし人生の色々な段階で多くの人と知り合い、ものごとを見聞きし、陰謀に巻き込まれる壮大なストーリーで、戦争も恋も、権謀術数も、悪女も、復讐も、と凡そ小説といえば考えつく様々な要素を一冊(邦訳は上下巻に分かれますが)で味わえる二度以上おいしい、たいへん盛りだくさんな大河物語がですよ、奥様いいですか?
なんと上下巻合わせて税込みたった五千円ちょっと!
一冊あたり税抜きで二五〇〇円での破格のご提供です!
今すぐ下の番号にお電話下さい!ゼロイチニーゼロ...
嘘です、電話番号はありません。みずいろブックスさんサイトをご覧ください。つい、興奮してテレフォンショッピング化してしまいました。
苦労…あれこれ
翻訳の苦労話はですね、A4十頁でも足りない気がしますので細かく語るのは別の機会に譲るつもりでいますが、短いバージョン行きます!
(ほんまか?)
何が辛いって、ミカ・ヴァルタリが構想を温め続け、終戦後の七十八年前にすんごい勢いで書き上げた本作の一文ずつの長さ、独特の言葉遣い、古代エジプト及び古代オリエントの文化・生活あれこれの用語統一、登場人物の会話文での人称、役割語、分かりやすさと原文への忠実性、そして何より私が未熟でそもそも「翻訳」するとはなんぞやって分かってるんかっていう根本かつ今更の悩みを最初から最後まで抱え続けました。(微妙に長かった)
原語に関しては上山美保子さんのお力添えを頂き、みずいろブックスさんとの推敲では真摯なご指摘をそれこそ無数に頂戴し、途中何度も元々自己肯定感は低かったのに加え、ささやかな自信など何度も木っ端みじんに打ち砕かれ、日本語力の無さに落ち込み、ひたすら完成させなくては、とみずいろブックスさんに励まされ、友人に何度も何度も繰り言を言い、夫には何百回と夜も遅くに解釈を尋ね、原文は通しで音読し(訳文を音読される方は多いと思います。これを原文もやりました。前述のように一文が長くて一息で読めない箇所が多すぎました。そして校了の頃やっと気づきましたが、私もそういえば自分で書くときは勢いだけで続けてしまうので、読点が少ない、文が長いところ「だけ」は作者との共通点でした)
周囲のお力添えを得て、現時点での自分の精いっぱいは出し切りました。翻訳の大家でもあった旧訳の飯島淳秀さんが紡いだ古めかしくも豊かな言葉遣いにあふれる文体と比べれば、当然ながら力不足は否めませんが、七十年を経て、当時の世界を席捲したベストセラーを重訳(スウェーデン語)×重訳(英語)でない原典からの完全訳にてすべてのエピソードも、前はカットされていた哲学的な述懐も、あますことなく日本の読者の方にお届けできるのは二度とない、一生に一度の幸せな仕事であったと思っています。
そして幸せといえば、翻訳するということは、読者として最も幸せな体験でもあると痛感しました。普通の読書の時にはこれだけ一行一行、一語ずつ読み込むという時間も手間も掛ける機会はなかなかないものです。ただ翻訳の時には精読に突き進んでしまいがちなので、全体の俯瞰ができるのは少し距離を置ける頃、つまり初校以降、さらには校了してからになるのかもしれないとも感じています。
二十二年前の初読時は0歳児の全然寝ない長男を片手に抱き、重たい原書をソファのひじ掛けに置いての読書でした。移住二年目で、当然私のフィンランド語読解力も今よりずっと拙く、面白く読んだものの深く読めたとはとても言えません。翻訳する間に、そういうことだったのか、と感じたり、ひょっとしてヴァルタリはこう言いたかったのかもしれない、と静かに思う瞬間が何度かありました。勿論それは私一人の読者としての感じ方であって、誰のどれが正しいという無粋なものではありません。
何度か、心に残るフレーズについて人と話したこともあり、読んだ誰しもがこの作品といえばこのフレーズ、というものを持っていることでしょう。私自身は翻訳に取り掛かる前は「これまでも、これからも世の中は変わらない」(何度も出て来るのでその都度微妙に言い回しは変わりますが)というものでした。また変わるかもしれませんが、今この瞬間は、「私はこの物語を、誰のためでもない、ただ自分のためだけに記すのである」というものに落ち着いています。人は何のために、誰に向けて、どう受け止めてほしくて書くのか。そして読み手は、なぜその本をその時に手に取り、目にしたものをどう受け取めるのか。なかなか恐ろしい問いでもあります。読むことは、虫が夏の火に飛び入るように、何度も燃え尽きながら、また挑んでいくものなのかもしれません。
知り合いのフィンランド人に「今は何を訳してるの?」と聞かれて、「シヌヘだよ」と伝える度に、例外なく「(ひゅっ)」と息を吸い込み(フィンランド人が驚いたときの典型的な反応のひとつ)、「大変だねぇ、頑張ってね!」と励まされたものです。一昨年のヨーロッパ文芸フェスの時も、他国の大使館や文化担当者の何人かの方が、「『エジプト人シヌヘ』、昔読んだよ、これ大好きだったんだ!」と声をかけて下さいました。武者震いか、緊張か、どちらにしてもみずいろブックスさんとともに、何度も震えたことは間違いありません。
日本では現在でも日々二百冊あまりの新刊書籍が刊行されますが、どの本にも作者や訳者、編者の想いが込められ、それぞれに意義があると思います。しかし、本作に関してはそのうちの一冊に埋もれ、忘れ去られて欲しくないのが身勝手ながら正直な気持ちです。既にご予約して下さったという声も何人かの方から伺っており、感謝に堪えません。続く読者の方も勿論有難いのですが、初版で買って下さる方は、この道のりを見守って下さった大切な方々だと受け止めています。
フィンランドの作品を中心とする出版社を皆で大切に慈しんでいきませんか
そして、フィンランドの作品を中心とする出版社、みずいろブックスさんの一作目はフランス・エーミル・シッランパーの『若く逝きしもの』(刊行時のお話を伺ったリンク)でした。今回の『エジプト人シヌヘ』が満を持しての二作目(上下巻)となり、夏前には現在でも精力的に活動を続け、左手のピアニストとしても名を馳せておいでの館野泉さん(シッランパー復刊にも帯文を寄せられています)の評伝が五十嵐淳さんの訳で控えています。(こちらも予約が始まっています!)
フィンランド好き、北欧好き、文学や本を愛する方に、みずいろブックスさんを是非応援して頂きたいと一訳者として強く願っています。こんなに親身に、徹底的にお付き合い頂いたのは最初で最後の経験であろうと思います。非才な私は多大なご迷惑をおかけしましたが、みずいろブックスさんから送り出す『エジプト人シヌヘ』(上・下巻)自体、埋もれさせるにはあまりに惜しい素晴らしい作品であるがゆえに、一人でも多くの方の目に留まり、お手に取ってあわよくばご購入いただき、素敵な表紙を愛で、すぐでなくとも、いつか思い出して少しずつページを繰り、心躍らせ、楽しんで頂ける作品となることを心から願って今回はペンを置きます。
※ご予約はみずいろブックスさんのサイト、または販売を請け負う静風社さんへ飛ぶか、お近くの書店を通じて、はたまたAmazonから可能となっています。
(文責:セルボ貴子)
<本文中の参考情報>
・2023年10月 ヘルシンキ・ブックフェアのパネル視聴者のフィンランド語でのブログ記事(写真あり)
・HS紙での大統領候補者の記事で現時点で無料公開されているものは1月末からさかのぼって三人分まで。最後のJutta Urpilainen女史の記事のリンク。文末に候補者および書名リストあり
・フィンランド大統領就任式2024年3月1日
(国営放送動画アーカイブ 本文での該当箇所は4時間分のうち1:08~)
・ニーニスト元大統領スピーチ全文(フィンランド語)
・ストゥッブ大統領新任スピーチ全文(フィンランド語)
・国会議長のスピーチ全文(フィンランド語およびスウェーデン語)
・タンペレのブックイベント大統領候補者たち登壇に関する記事(フィンランド語)
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