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note再開一週間/自分の中の"作家様"を叱らない

去年の9月、noteに投稿し始めたときは毎日投稿するのが結構大変だったし、変に頑張り過ぎていた。一方この一週間は、書けるネタと時間があったらまあ書くかみたいな気持ちでいて結局毎日書けた。

前はアウトライナー(Dynalist)で書けそうなネタをブレストして構成を考えて……とかあれこれやっていたけど、今は何もしていない。ただnoteのアプリから編集画面を開いて、いきなり本文を書いている。一心不乱にスマホの画面をフリックしまくる。何度か読み直して多少の修正はするけれど、ほとんどそのまま投稿した。

多分、この話をしたいと感じた瞬間に着手しているからわざわざ構成を練らずともブレずに書けるのだと思う。これが人から与えられたテーマに沿うとなるとそうはいかない。
きちんと構成を考えて書くトレーニングもそれなりにしてきたけれど、やはりそれよりは勢いで書けたもののほうが生き生きした文章になっているだろう。
私の場合、アウトライナーを駆使して頑張って書くとかいうことは、端的に言うと収入に繋がらないならやっていられない。アウトライナーを活用しないと書けないことはたとえ書きたいことであっても支払う精神的コストが高いのである。いわゆる注意資源とか認知資源とかいうものの減りがはやい。
もちろん、構成を作れさえすればいずれは書き終えられるので、消費が大きい代わりに確実性は高まる。

「書きたいことを書く」ということは大事だし、それはnoteに生息している人ならみんな思っていることかもしれない。
ただ、「書きたい」にも鮮度の差があって、「今日の私」と「こういう人生を送ってきた私」とでは、書きたいことの内容にも鮮度にも大きな差がある。テーマを設定とかいうことをするときの「私」は「こういう人生を送ってきた私」なのだけれど、今日書くのは「今日の私」なのである。
そのギャップは全くシャレにならなくて、折り合いが悪いと互いに邪魔し合ってただ疲弊する。私の中のそれらはかなり折り合いが悪いようだ。

「今日の私」は私の人生全体を俯瞰するわけではないので、もし何かしらコントロールしたいなら「こういう人生を送ってきた私」が指示をする必要がある。しかしそれが「今日の私」の意に反してしまえば「今日の私」は動かない。無理強いしてもダラダラやることになるし、しかも成果物の出来も冴えない。
結果的に書かれた文章がしょぼかったら全く意味がないし、あくまで「今日の私」が乗れるように「こういう人生を送ってきた私」は機嫌を窺いつつうまく話題を提供していく必要がある。私という人間の中で「今日の私」は文を綴ってくれる作家様であって、叱りつけて鞭打っちゃいけないのである。
もし「今日の私」と「こういう人生を送ってきた私」が意気投合しているなら、こんな面倒くさい問題は発生しない。自分が設定したテーマについて毎日うきうきと書いていられるはずだ。物を書き続けたいのならそのように自分の中の人間関係を保つことが肝要なのだろう。

とりあえず、暫くは「今日の私」の自由にさせて書けるときに書けるものを書きたいだけ書くということをしていきたいと思う。「今日の私」が「今日は疲れてるし書きたくないっす」と言ったら書かない。「思いつかないっす」と言っていたらそっと複数の話題を用意して様子を窺う。「これを書いてよ」という指示は出さない。
そのうちに、どんどか書きまくって発想が追いつかなくなり「さっさと話題を寄越してほしいんすけど」と「こういう人生を送ってきた私」に要求してくるようになるかもしれないし、そこまでいけばしめたものである。
まだ今のところそういう感じではないので、「毎日note」のような試みは無謀だという自覚がある。結果として毎日書くかもしれないが、きっと「毎日書こうと思います」と宣言した瞬間に「今日の私」はへそを曲げるに違いないのだ。自分の人生を俯瞰している「私」は毎日書いてほしいと思っているのだが、「今日の私」にはそんなことはどうでもいいのである。変な義務感を発生させるなバカヤロと怒るだけだ。

ここまで読んで「こいつは何を言ってるんだ?」と思った方々は、きっと自然と折り合いがついているのだと思う。そのまま自然体で生きていってほしい。
共感してしまった皆さん、一緒に頑張っていきましょうね。(いるかどうかわからないけれど。)

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