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嵯峨野ぐらし12 幻の京都大仏

 日本の三大大仏といえば奈良東大寺・鎌倉高徳院ともうひとつはどこ??
と聞かれてあなたは何と答えますか?
現在一般的に名前が挙がるのは、高岡大仏(富山県高岡市大佛寺)岐阜大仏(岐阜県岐阜市正法寺)、東京大仏(東京都板橋区乗蓮寺)あたりですが、文化財級の古さはないけど大きさなら負けない牛久大仏越前大仏、大きくはないけど聖徳太子の時代からある飛鳥大仏など、3つめは諸説が群雄割拠です。
 しかし、昭和19年まで3つめといえば兵庫大仏(神戸市兵庫区能福寺)で決まりだったそうです。が、残念なことにこの大仏は第二次大戦中の金属類回収令で溶かされてしまい・・・・・・ 以後現在のように「我こそが3つめだ!」の立候補が入り乱れる状況になっているのです。
ちなみに兵庫大仏は平成になってから再建されていますが(下写真)、牛久大仏のような平成生まれの巨大像の中では目立たない存在になっています。

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私が兵庫大仏へお参りしたとき(12年前)も、大仏よりも帰り道に寄った鉄人28号像(神戸市長田区)のほうが数倍かっこよかったです(笑)

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ついでに、うちの近所(京都市右京区太秦)には、大魔神像があります。昔この場所にあった大映京都撮影所で映画の撮影に使っていた本物ですよ。

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 三大大仏に話を戻します。さらに時代を江戸時代まで遡ると、三大大仏といえば、「奈良・鎌倉・京都」が常識だったそうです。
京都大仏? 京都にアフロ仏はあっても大仏と呼べるような大きな仏像はなかったような・・・・・・  ということで、今日は京都大仏についての話題です。

 京都で「大きい」とか「ハデな」という枕詞がつくものといえば、だいたいこの人が関係しています。そう、この人! 太閤 豊臣秀吉!!
京都の長い歴史で秀吉が京都にいたのはほんのわずかな期間なのですが、彼の影響力はほんまにスゴいです。

1586年4月
秀吉の天下統一はまだ果たされていないまでも、おおよその道筋が見えてきた頃、「大きいもの大好き! ハデなものはもっと好き!」な秀吉が五奉行のひとり石田三成に言います。
「京都に大仏を作れ! ただし大きさで奈良の大仏に負けるのは許さん!」
それにしても、織田信長が天下統一を目前に本能寺の変で命を落としたのが1582年。それから4年でここまで勢力を伸ばすとはさすがに秀吉。

1588年
秀吉の命令から2年経っても大仏の工事らしきものは始まっていなかったのですが・・・・・・ 
秀吉:おい三成! 大仏の工事は順調か? もう完成も近いじゃろ?
石田三成:えっ? 殿、あれは本気でおっしゃってたのですか?
     冗談かと思ってましたよ・・・ (てへぺろ)
秀吉:たわけ!! 本気も本気じゃ!! 
   ガタガタぬかしとったら切腹さしたるぞ! 5年で作れ!5年じゃ!
三成:ひえ~ そんな不条理な~
といった会話があったという史実は全くありませんが、この頃から急ピッチで工事が始まり、全国の大名が材料や人の調達に走り、仏師や大工が総動員されます。場所は三十三間堂の隣、現在の東山区の京都国立博物館から豊国神社のあたりに決定。鋳造仏である奈良の大仏に負けないよう鋳造で作りたいところですが、「工期5年」ではムリがあるので紀州から調達した木材を使った木像に漆喰(しっくい)塗と工法も決まります。酒や餅を大量に用意して京都の町人を集め、この場所で何日も盆踊りをさせて土地の地固めをしたという記録もあるようです。

1595年4月
なんだかんだで7年かかってようやく大仏が完成します。大仏は奈良大仏を上回る高さ19メートル、それを収める大仏殿は南北260メートル、東西210メートルの規模だったようです。大量に必要となった釘や鎹(かすがい)は1588年から行った刀狩で集めた刀剣を溶かして作ったそうです。秀吉は「なんせ大仏を作るのだから、刀を提供したあんたらは今世ばかりか来世でも仏様のご加護があるに違いない! 知らんけど・・・」 と言って刀狩をしたのでしょうか。開眼の大法会は、仏教8宗派から各100人ずつの僧を集めて行われるという「仏教界夢のオールスター」ぶりで、これを機に秀吉は仏教界の全宗派に対する権力も手にしたと言われています。秀吉のむちゃぶりにもちゃんと応えている石田三成もたいした人物であったことが改めてわかりますよね。

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 しかし、秀吉が京都で作った大きくてハデなもの(豪邸 聚楽第や京都版万里の長城こと御土居など)は後世に、跡形もないぐらいに消されているという史実が語っているように、京都大仏もここから没落の日々が始まります。

1596年閏7月
「慶長伏見大地震」で大仏は手が落ちるなど大破!
この地震は阪神淡路大震災と同じ断層を震源とする直下型地震であったとされ、秀吉が老後の住まいにと新築したばかりの伏見城が倒壊して600人が死亡するなど大きな被害が出ています。タンス職人さんは桐材を板にしてから何年も雨風にさらして板のゆがみやひずみを全部出しきってからタンスにするというのをテレビで見たことがありますが、やっつけ仕事で作った木造の大仏は木材が乾燥するにつれて内部応力によるひずみが発生して、ちょっとした衝撃でバラバラになったのでしょうか。
しかし、倒壊した大仏を見て秀吉はこう言い放ちます。
自分の身もかばえず地震で壊れるような大仏に、何のご利益があるというのだ! そんなもんそのまま放っておけ!! 仏だけにほっとけ!なんちゃって・・・」
そして数日後に妙なことを言いはじめます。
「わしは近頃毎晩、信州善光寺の御本尊の夢ばかり見るのじゃが、昨夜はついに枕元に善光寺如来さまが立たれて、京都の東山に遷座したいとおっしゃるのじゃ!」 その当時、善光寺の御本尊は川中島の合戦の戦火に巻き込まれないようにと武田信玄が甲府へ持ち出していたのですが、秀吉のご指名により、今度は京都へ持って来られることになってしまいます。

1597年
大破した大仏が片付けられた後の、巨大な大仏殿の中の巨大な台座に全長わずか45センチの善光寺如来像が飾られるという何ともシュールな光景が展開されます。これを見て笑いがこみあげてくるところ、秀吉の前で必死で笑いをこらえた家臣が何人もいたことでしょう。
しかしこの頃から、秀吉は病で床にふせるようになります。さらに京都では異常気象が続いたことから、巷では「善光寺如来の呪い説」が囁かれるようになります。

1598年8月
善光寺如来を祀った大仏殿の修理が終わり、8月22日に落慶法要が執り行われることに決まります。しかし8月17日になって突然、ご本尊の善光寺如来は信州長野の善光寺へ帰されます。善光寺如来が再び秀吉の枕元に立たれて信州へ帰してくれとおっしゃられたとか、夢にうなされる秀吉を見て、ねね様や淀君が命じたとか言われてますが、とにかく再び大仏殿の台座はからっぽになってしまいます。そして8月22日、何にもない大仏殿で落慶法要と大仏の開眼供養が行われるという、空即是色を世に示す最大級に哲学的なイベントが開催されます。しかしその場に秀吉の姿はありません。世間にはまだ伏せられていましたが、秀吉は8月18日に亡くなっていたのでした。

1602年
秀吉の跡目を継いだ豊臣秀頼は、「今度は地震に強い大仏を!」と鋳造仏での再建に着手します。しか~し、鋳造中に溶湯がこぼれて出火。とうとう大仏殿まで焼失してしまいます。

1612年
大仏ばかりか大仏殿まで失ってしまった豊臣秀頼でしたが、執念で再建した大仏と大仏殿がこの年に完成します。一説には、徳川家康「坊ちゃん! 大仏は秀吉さんの夢だったんだから、立派な大仏を作ってお父様の名を残してあげるのが最大の供養ですよ! それができるだなんて、あなたはなんと親孝行な息子。わしも秀吉さんを見習って子育てしたいもんだ」などと言葉巧みに秀頼に勧めて、豊臣家の財産を枯渇させたと言われています。策士やなぁ。
だが家康の策士ぶりはこれでは終わりませんでした。このときに作られた梵鐘の銘文に徳川家への呪いが込められていると難癖を付けたのです。
「国家安康」は、通常は使うのを避けるべきわしの諱(いみな)の「家康」を取り込んだうえに家と康を分断するとはけしからん!
「君臣豊楽 子孫殷昌」は豊臣家の繁栄を願う文でありけしからん!
と言ったとされる、いわゆる「方広寺鐘名事件」です。大仏は完成しましたが、これがもとで、豊臣家は大阪の陣で滅亡させられます。

1662年
豊臣家は滅亡しても京都に残った大仏でしたが、この年に起こった「寛文近江若狭地震」でまたも倒壊。徳川幕府は経済政策として壊れた大仏を溶かして「寛永通宝」にしてしまい、大仏を木像で再建します。その後、「京の大仏」は観光名所として日本三大大仏のひとつに数えられるようになりましたが・・・・・・

1798年7月
デジャブのような話ですが、落雷により大仏殿と木像の大仏が全焼
再びすべて灰になってしまいます。今度こそはもう再建もされないような雰囲気でしたが・・・

1843年
秀吉の地元、尾張の有志が私財を寄進し大仏を再建。しかし江戸時代に豊臣家のような巨万の富を持っている人はいないわけで・・・
大仏は上半身だけの木像、大仏殿もスモールサイズでの再建でした。
そんな「スモール大仏」も京都の観光スポットになっていたのですが・・・

1973年3月
デジャブ、そうまたもデジャブ!
火災により全焼。今は「方広寺鐘名事件」の鐘が吊るされた鐘楼と緑地になっています。

 というように、今は京都に「大仏」はないのですが、東山七条界隈を歩くと、今も「大仏前交番」「大仏前郵便局」があり、三十三間堂前の七條甘春堂では銘菓「大仏餅」を売っています。
まぁ、私が生きているうちに「京都大仏」が再建されることはないでしょうな・・・ ではまた、次回をお楽しみに。
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