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正面通って何の正面やねん?【嵯峨野ぐらし37】

 あ~あ、最近あんまり運動してないな~ バイトもヒマだからあんまり肉体労働しないし。歳をとって男性ホルモンが枯渇すると筋肉の維持ができないから、近頃、脚が自分の体重を支えるのもしんどくなってきてるし・・・・・・
 ということで、久しぶりに「京都の通を端から端まで歩いてみるシリーズ」をやってみました。
 今回は正面通を歩きました。正面通はバイト先の近くを通っていて、お昼を食べに行くときにプラプラ歩いているのですが、京都在住の人でもあまり知らないようなスポットもあり、歩いてみたら面白そうだとずっとこの企画を温めていました。そもそも正面通って、何の正面なんでしょう?
 正面通は東西方向に走る道で、五条と七条の間にあります。「五条と七条の間やったら六条やろ!」とツッコまれそうですが、五条通が国道1号&国道9号、七条通が京都水族館や鉄道博物館、三十三間堂、国立博物館などを結ぶ大きな道なのに対し、六条通は正面通の北側にあるにはあるのですが、全長1kmほどしかない短い生活道路で市民でもほとんど通ったことがないぐらい地味な道なので、京都の人にとっては「五条と七条の間」がしっくりとくる表現なのです。ちなみに、京都で東西方向の道を覚えるため歌う『丸竹夷の歌』は、五条通までは通り名を一本も抜かさずきっちり歌っているのに、五条より南は『六条三哲通り過ぎ、七条越えれば八九条~』と突然快速運転になるので、正面通はスルーされています。
 そんな正面通は、西は千本通と交差するところから始まっています。千本通の西側には中央卸売市場とJRの高架があり下写真のように突き当たりになっています。市場の西側にも正面通の延長線のような道が断続的にありますが、これは正面通とはされていないようで、Wikipediaでも「西端は千本通」と書かれており、一般的にはここが西の端っこのようです。

正面通の最西端(千本正面)

 この界隈は「島原」と呼ばれる地域で、以前は日本を代表する花街だったところです。1641年に幕府公認の遊郭がこの地へ引っ越してくるときの大騒動ぶりが島原の乱(1637年)のようだったから島原と呼ばれるようになったようです。(諸説あります) ただ、幕府公認の文化サロンのような格式の高い超高級遊郭だったようで、庶民は寄り付かず(寄り付けず?)、お客が祇園や上七軒などへ流れてしまったので衰退も早かったようです。今も角屋や輪違屋の建物が当時の姿で残っており、角屋さんはもてなしの文化美術館として見学もできます。

角屋もてなしの文化美術館

 このあたりの正面通は下の写真のような細い静かな道です。しばらく歩くと、大宮通との交差点で、もひとつ下の写真のように長~い蔵のような建物に突き当たります。この建物は何だ? とりあえず、一本北側の「花屋町通」へ迂回します。

正面通

突き当たり (大宮正面)

 花屋町通からこの大きな建物の塀沿いに東側の堀川通へ出てみると・・・・・・
ジャ~ン! 西本願寺!

西本願寺

 西本願寺浄土真宗本願寺派の総本山です。実は私のウチもここの門徒なのですが、門前の堀川通は数えきれないぐらい通っているにも関わらず、私が境内へ足を踏み入れたのは今回が2回めです。ウチの宗派は何なのか、私の父親もよく知らなかったので、25年ぐらい前に山口県在住の本家のおっさんに聞いたら西本願寺だと教えてくれたはずなのですが、時が経ち東か西か思い出せなくなってしまい・・・・・・(どれだけ宗教に無関心やねん!) 妻のお母さんが亡くなったときに、妻の実家も西本願寺でしかも先祖が加賀一向一揆に参加した筋金入りだということが判明。(妻もそれまで自分のウチの宗派を知らなかった) お坊さんが言うには、一大戦闘集団であった本願寺は毛利元就と手を組んで織田信長と戦ったことから、毛利家は浄土真宗を保護した経緯があり、毛利家が治めた中国地方の浄土真宗の家はほとんどが、その流れをくむ西本願寺だそうで、やっぱりウチは西本願寺だったのかとわかったような次第です。ちなみに東本願寺(浄土真宗大谷派)は再び本願寺が戦闘集団化しないように、後に徳川家康の策により東西に分裂させられたときに生まれた宗派で、西本願寺から見ると分派になります。
 西本願寺を出ると、正面に再び正面通が現れます。数珠や仏具や経本などを扱う店が立ち並ぶこの道の北側には「上珠数屋町通」、南側には「下珠数屋町通」という400メートルほどしかない通があり、その真ん中にある正面通は「中珠数屋町通」とも呼ばれています。

別名 中珠数屋通

 この道をしばらく進むと、またも突き当り。再び花屋町通へ迂回します。
突き当りの塀のあるところは小さなお寺ですが、その裏にお城の石垣のようなものが見え隠れ。この大きな建物は何だ?

再び突き当たり

ジャ~ン! 東本願寺!!

東本願寺

 暑い中、朝から歩いて、ぼちぼち歩き疲れたので先を急ぎましょう。
東本願寺の門を出ると、またまた正面通が復活!

正面通復活

 と思ったら、すぐにまたまた突き当たり。ただ、今度は裏側ではなく、正面通りからまっすぐ入れる門があります。しかし、ここは「正面通って何の正面やねん?」の答えではありません。
 名勝渉成園(別名枳殻邸)です。渉成園は東本願寺の飛び地境内で、四季折々の花が咲く美しい庭園です。1641年に徳川家光から寄進された土地に石川丈山が作庭したとされています。東本願寺は、家康が本願寺を分裂させて起ち上げ、家光が庭を寄進するなど、徳川家が何かと関わっています。実はこれが「正面通って何の正面やねん?」の答えと関係しています。
 余談ですが、私が以前単身赴任で住んでいた愛知県安城市には「丈山の里そうめん」という名産品があり、丈山というのはこの地出身の石川丈山という人らしいというのは知っていたのですが、何をした人か知らず、渉成園や詩仙堂を作庭した武士だということは京都へ帰ってきてから、しかも最近になって初めて知ったのでした。

渉成園

 渉成園は前に一度来たことがあるので、というか入場するのに志納金を納めなければならないのでスルーして、またも一本北側の道へ迂回します。河原町通から何度めかわからないぐらい、消えては復活した正面通を東へ進みます。

河原町通から東へ

 少し歩くと高瀬川にかかる橋があります。「志よめんはし」すなわち正面橋です。ただいま工事中。

正面橋(高瀬川)工事中

 高瀬川は京都の豪商 角倉了以(すみのくらりょうい)が京都の市街地と大阪から海を隔ててつながる全国の港との間で舟を使った物流を可能とするために、淀川と接続する伏見まで開削した運河です。鉄道がなかった時代、渉成園の建設や「正面通って何の正面やねん?」の答えの建設などのため、この界隈は港としても整備され、京都の物流の拠点として栄えていたそうです。

高瀬川

 今はあまり観光地化されず寂れたレトロな雰囲気の街並みですが、下写真のような一度はのぞいてみたくなるような博物館もあります。ただしいつでも開館しているわけではなく、事前予約が必要です。

医療器具歴史博物館

 正面通沿いには、下写真のように「世界の任天堂」の創業当時の社屋もあります。この界隈には「かるた屋さん」が何軒かあり、山内任天堂もそのひとつでした。私が子どもの頃はおもちゃ屋の店先に、おっさんの顔が書かれたカード型の紙板をモビールのように吊り下げた「任天堂大統領花札」の広告がよくぶら下がってました。あの当時、まさか任天堂が今のような世界的企業になるとは誰も思ってなかったでしょう。
 大統領花札にもあるように、任天堂のマークは「〇に福」でした。この元社屋も改装され、2022年4月に「ホテル丸福楼」としてオープンしています。まだあまり知られていないのか、交通が不便だからなのか、意外とお手頃なお値段のようなので、京都観光の際は宿泊を検討されてはいかがでしょうか。私が歩いているとき、欧米人観光客の団体が自転車で見物に来ていました。「世界の任天堂創業の地」というだけで、インパクトがあるんでしょうね。

任天堂大統領
任天堂創業の地
今はホテル丸福楼

 丸福楼の近くに下写真のような「任天路地」と呼ばれる「ろーじ」がありました。私有地なので勝手に入って何かあっても知らんで的なことが書いてありましたが…  それにしてもスゴい土地活用法だ。

任天路地
サウナの梅湯

 この界隈はかつて「五条楽園」と呼ばれた遊郭街で、島原とは違い、細々とですが2010年まで営業してました。現在は、老舗銭湯をマニアの若者が改装して再興したことで知られる「サウナの梅湯」が観光銭湯として有名ですが、以前は梅湯の隣にあった会津小鉄会本部がこの界隈のランドマークでした。現在、その跡地は任天堂山内財団が買い取り若者の芸術発信基地として整備されるようです。また、この一帯は源氏物語の光源氏のモデルになった説がある源融(みなもとのとおる)六条河原院と呼ばれる豪邸があった場所とされ、渉成園もその庭の一部だとする説もあります。
 再び正面通に戻り、鴨川にかかる正面橋を渡ります。

正面橋(鴨川)
鴨川

 川端通を越えると、またも下写真のような細道になりますが、しばらく進むと、突然正面通が中央分離帯もある広い道に変身します。といっても、その広い道は100メートルも進むと最東端の行き止まりにぶち当たるのですが…
道が広くなったところで右を見ると、もひとつ下の写真のような小高い塚があります。これは「耳塚」と呼ばれる塚で、豊臣秀吉朝鮮出兵した際に、朝鮮半島から敵兵の首を持ち帰るのはかさばるし重いからということで、代わりに耳を削いで塩漬けにして持ち帰ったようで、そのとき命を落とした敵兵を供養するために、ここに耳を埋めて祀ったとされています。外国人観光客向けに観光地として売り出すのは、耳を削いで…とか言うのはちょっとはばかられますよね。

正面通(川端正面)
耳塚

 そして、いよいよ正面通の東の突き当たりにやってきたわけですが、そこにあるのは…
ジャ~ン! 豊国神社!

豊国神社

 しかし、「正面通とは豊国神社の正面だったんだ」と結論づけるのは早計です。現在ある豊国神社は明治天皇が秀吉を顕彰するために、この地に建てたもので、正面通のほうがずっと前からあったのです。じゃあ、明治より前はここに何があったのだ?
 答えは「京都大仏」です。嵯峨野ぐらし第12話で紹介したように、秀吉は自分の余命がいくばくもないことを悟ってか、京都東山のこの地に、奈良大仏よりも大きな木像の大仏と大仏殿を建立させます。釘や鎹は刀狩りをして調達し、ついに奈良よりも大きな日本一の大仏が完成しますが、開眼法要を待たずに慶長伏見大地震でバラバラに倒壊。秀吉は失意のうちに亡くなります。後継者の秀頼が鋳造仏で大仏の再興を図りますが火事により焼失、さらに豊臣家の財産の枯渇を狙う家康の口車に乗り、大仏を再興しますが、待ってましたとばかりに家康は弱体化した豊臣家にいちゃもんを付け、ついに滅亡させてしまうのでした。その後、その大仏と大仏殿も落雷により焼失。後に豊国神社が建立されるまで、その跡地は荒野になってしまうのでした。ちなみに江戸時代末期に、今の豊国神社より少し南に、尾張の富豪からの寄進によりミニチュアサイズの京都大仏が再興されましたが、これも昭和46年に火災で焼失しています。
 というわけで、「正面通って何の正面やねん?」という問の答えは、京都大仏の正面なのでした。なので、この界隈には現在も下写真のように大仏前郵便局大仏前交番があります。

大仏前郵便局

 さて、東本願寺でちょっと匂わせていた徳川家と東本願寺の関係ですが、秀吉は自らを神格化するため、京都大仏の裏側の山に自分の墓を作り、正面通沿いに息子鶴松の墓を建て、この道を西本願寺の阿弥陀如来とともに自らが死後、西方にあるという極楽浄土へまっすぐに導かれる道とすべく正面通を整備したのでした。ところが、徳川家は秀吉の死後、西本願寺と大仏の間に、東本願寺や渉成園を建てて、その道をいくつもに分断したばかりか、東本願寺は建物や伽藍の配置ばかりか畳の向きまで西本願寺と反対にして、秀吉の極楽浄土へに昇天し神となる野望を打ち砕いたとされています。死後のことなんて、どっちでもええやん。恐るべし徳川家。
 さて、久々の大作ですが、いかがだったでしょうか? 次回作をお楽しみに!

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