見出し画像

愛をちゃんとは才能だ 「ひきこもりの弟だった」を読んで

「この本を読んで何も感じなかったとしたら、
それはある意味で、とても幸せなことだと思う。」
そんな推薦文を読んで手に取った。

自分の感情豊かさに自信のない私はこの本を読んで何かを感じ取れるだろうか。そして、私が何も感じなかったとして、その理由はこの人が「幸せだ」という理屈に該当するのだろうか。そんな不安と共に。

あらすじ
『質問が三つあります。彼女はいますか? 煙草は吸いますか? 最後に、あなたは――』
 突然、見知らぬ女にそう問いかけられた雪の日。僕はその女――大野千草と“夫婦”になった。互いについて何も知らない僕らを結ぶのは【三つ目の質問】だけ。
 まるで白昼夢のような千草との生活は、僕に過ぎ去った日々を追憶させていく――大嫌いな母、唯一心を許せた親友、そして僕の人生を壊した“ひきこもり”の兄と過ごした、あの日々を。
 これは誰も愛せなくなった僕が、君と出会って愛を知る物語だ。

読み終わって湧いたのは、少しのいたたまれなさとぼんやりとした安堵だった。
ああハッピーエンドか、まあ妥当で現実味のある落とし所だな、なんていつもはすっと引いた第三者目線で結末を客観視するのに。2人が新たな未来を掴み取ったことにほっとしてしまうくらいには感情移入してしまった。

私は多分、啓太と千草の側の人間だ。
もちろんあくまで「どちらかというと」のレベルで、当然その端から端はグラデーションになっているから、明確な線引きなんてない。
特別な生きづらさも、分かりやすい経験も挫折もなく、それこそ啓太と千草に「その程度で何を」なんて言われても仕方がない。

それでも私は、自分の愛する心に欠陥を感じている。その点において、啓太と千草の側にいる。


これは「『弱さ』の物語だ」と三秋縋さんが書いていた。
その通りだ、と思う。

私も、母とあんまり折り合いが良くない。
決して仲が悪いわけではない。話すし、出かけるし、2人で大爆笑していることもある。母のことは好きだ、基本的に。大好きだ、と打って消すくらいには素直になれないけれど。
家庭環境も至って普通。中流家庭のテンプレートのような家。
サラリーマンの父と専業主婦の母がいて、私立大学まで何不自由なく、望んだ進路も経験も手段も与えられてきた。母と父も、ちょっと喧嘩は多いが夫婦で間違いない。
家に帰れば温かいご飯があるし、布団を畳まずに出て行ってもきちんと干してくれている。


愛して育ててもらったと、愛されて育ったと、自信を持って言える。
それでも、人生で一番嫌いな瞬間が多い人で、心の底から死ねと思ったことがあるのは母だけだ。

きちんと育ててくれた親に対してこんなことを思うなんて。
そうだろう、自分でもそう思う。
愛しさ余って憎さ百倍というか、要するに「家族だから」「好きだから」「血が繋がっているから」嫌いな部分が嫌いであると浮き上がってくるんだよ、他人なら放っておけばいい。
そうだね。でもやっぱり手放しに好きと言えないくらいには屈折している。

依存しないと生きられない相手だからこそ、自分の力で生きられないのに逃げること自体が悪で考えなしだったからこそ、負の感情が増幅されたのだろうという分析で済ますのは簡単だ。

赦しこそ愛だなんて、親に向かって思えるようになったのは本当に最近のことで。それでいて私はまだ、これが愛なのか諦めなのかの区別がついていない。

弱いひとなのだ、母は。
二十歳を超えてから、そのことをきちんと理解できた。
中学生の頃は全く気づいていなくて、反抗期という形で自分を守るのに必死だった。
高校生でうっすらと別の言葉で自分を納得させようとした、反抗期は頻度を下げて継続した。
そして、この本を読んで感情移入した私も、まだまだ弱い。

愛だの思いやりだのについて考えるとき、心臓の少し後ろ、肺の奥、喉の終わりの方から風が吹くような感覚になる。せり上がってくるくる言葉はいつも同じ、「そんなんロボットやん」。
他にも色々言われた、「人でなし」「思いやりの心はないん」「感情ないんじゃないの」。無意識に、「相手が一番言われたくないこと」を選んで口にしてしまう人だ。私がその時一番悩んでいること、コンプレックスに感じていることを引き合いに出してくる。
最近の流行りは「だからあんたは仕事ができひんねん」。上司と折り合いが悪いままインターンを辞めた私が、一番嫌な煽り方を。

包み紙は決まって「あんたがこのままやと困るから」「お嫁に行ってもそんなことするの」「家族だからいうねんで、どうでもいい人やったら言わん」「ママの育て方が悪かったんかなぁ」。

いっぱいいっぱいになると、目の前のものの優位に立つことでバランスを取ろうとする。あなたが悪いから私はこうするんです、嫌なことを突いてあげないとどれだけ大変なことか分からないから、私は仕方なく、だから何にも悪くない。手をあげた後はいつも、「叩かな分からんやろ」。

その場で反論の機会を与えられなかった言葉は刺さったまま抜けないのだと大人になってから気づいた。


被害者面するつもりは毛頭ない。
私の感情表現が乏しいのは私がそこへの努力を怠っているからに違いないし、母にそこまで言わせているのが自分の行動であることも。母に生活面の世話をしてもらって、その感謝に対する気遣いが少ないのは普通に私が悪い。

所詮「言わんでええやんそんなこと」というレベルで、いちいちネチネチ思い出すなよ、も正しい。
冷たい人間なんだろうなと感じている自分に、図星だから余計に刺さっている。うっすらそうかもしれないと思っていることを振りかぶって言われることを咄嗟にシャットアウトしているだけ。


啓太のお母さんは「あんたのせいよ」と言った。
よくぞ息子に一生罪を背負わせるようなことが言えるな、と慄いたけど、そこまで考えないのが弱さなのだろう。啓太も啓太で「私たちは悪くない」に俺を入れるなと思うわけだからどっちもどっちが否めない気もするけど、「弱いものいじめになるから」があるだけ強くなった。

私も、多分もう母より強い。
向けられた言葉以上の意味で傷つくことはもうない。
でも、「なんで頑張って強くなった私が許してあげなきゃいけないの」と駄々をこねる心はいまだにあって、そこはやっぱりクソガキだ。

「そうだね、ごめんなさい」
そう笑顔で言えるようになって一人前だと、嫌ごとを言われてむっとして状況が悪化するたびに凹んでいる。


私が少しだけでも強くなれた理由があるとすれば、中高時代に繰り返された言葉だと思う。
「あなたたちは恵まれています」
そう初めて言われた中学生の時、「恵まれてなんているもんか」「こんなに家に帰りたくないのに」なんて反発した。
それでも、客観的事実として恵まれていることに変わりはなくて。「大学進学率が99.99%を超える学校にいておいてごちゃごちゃ言うな」のようなことを先生に言われて腑に落ちた。

こんなに好きな場所を、恵まれていないなんて言うつもりか。
環境を言い訳にするのはきっとかっこわるい。

被害者面すること自体弱さを振りかざしていたのだと、今になってようやく理解できる。
強ければ、自分で解決できる、戦える。少なくとも自分より弱いと認識する相手にどうこうされることはない。


だからこそ、自分が自分の愛する心に欠陥を感じていることになんの言い訳もできないのだけど。

自分の弱さは自分で背負わなきゃいけない。誰のせいにもできない。

結婚もしたいし子供も欲しい。
でも、恋愛には向いていないんだろうなあ。

今まで付き合った人は1人だけで、トラウマになる程何かがあったわけでもない。自分から切り出した別れで、もう会っても表面上は普通に話す距離感だろう。少なくとも私の側は、何か心が動くこともない。

多分、なくても平気だ。私にとっての恋愛は。
その欠陥を真っ向正面から見つめる勇気が湧かなくて、誰かを恋愛的に好きになることを、何かと理由をつけて避けている。きっと。

「バイトの予定組むみたいに俺との予定入れないで」が理解できない私は、やっぱりどこか欠けているのだろう。友達にこの話をすると、半々で反応をもらう。「私はその子の言い分もわかるな」「いや〜、それ言われたらめんどくさいわ」。
特殊なほど欠けているわけではないかもしれないけど、欠けてる側だ。それは間違いない。

欠けている分取り繕う努力が必要で。なのに「友人ならともかく家族になるかもしれない人にその気遣いをずっとし続けるのはしんどいな。」と思う私はやっぱり母の娘で笑ってしまう。
「家族だから」に甘えるのは怠慢だと、知っているはずなのに。


この本を読み終わって感じたのは、いたたまれなさと安堵、そして寂しさ。

いたたまれなさは、登場人物の弱さを自分の中にも見ているから。
安堵は、自分も持つ弱さに救いが与えられたこと。
寂しさは、現実に取り残される自分に対してだろう。


三秋 縋さんの寄稿文の一節が、たまらなく腑に落ちた。

———あの結末を読んだときは、彼らにおいて行かれたような寂しさを覚えた。でも、多分それでよかったのだと思う。物語には必ず入口と出口がなくてはならない、と昔ある作家が書いていた。この物語に深く入れ込むような人間は、それゆえに、最後にはこの物語に突き放される必要があったのだ。
 じゃないと、いつまでたってもここから抜け出せないから。
三秋 縋 特別寄稿


愛することを知った啓太と千草に、少しの嫉妬を覚えて本を閉じた。

この記事が参加している募集

読書感想文

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?