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香る草の匂いも忘れたくはなかった

最近、Bluetoothのイヤホンを片耳に刺してすぐAppleMusicを開いている。

顔認証がままならない社会でホームボタン恋しさにXからSE2に変えたiPhone。画面下方をスワイプして表示させるコントロールセンターで再生ボタンを押すだけじゃしっくり来ない朝。

ここ2週間、決まって一曲目はGLIM SPANKYの「美しい棘」だ。
「とげ」じゃなくて「いばら」。

私のiPhoneにGLIM SPANKYはこの1曲だけで、何で入ってるかも定かじゃない。思いがけず零れたエモーショナルかセンチメンタルの装いをしたストーリーに、うっかり私の指先が反応したのだろうか。

友人の中にAppleMusicをInstagramで共有しそうな人達はいくらか思い当たるし、この手のバンドを好むのは2人か3人に絞られるけど、共感で盛り上がりたいわけでもお近付きのきっかけにしたい訳でもないから、どっちだったか思い出すのはやめた。

ともかく私は、GLIM SPANKYの「美しい棘」を聞き漁っている。今この瞬間。
TOEICリスニングの教材CDを100曲分くらいスクロールしてこの曲を探す程度に。

なんでこんなに刺さってるんだろう、なんでこんなに頭から離れないんだろう。
だって今の私に、この曲が刺さるはずがない。

多分というか絶対、これは少女の歌だ。
十字架の窓にプリーツスカートだから、きっと高校卒業するくらいの子達をイメージしてるんだろう。

高校は2年前に卒業したし、今年で21の自覚はあんまりないが自分が20の自覚はある。
成人しといて少女だなんて、若さ至上主義クソくらえを差し引いても若干いたたまれない。

いつまでたってもレディになれている気はしないけど、ガールを高らかに名乗るほどの無知とハリはもうない。そんなことは十二分に自覚していると思っていたのだけど。

一旦歌詞を引用する。
文章作法に自信が無いので、駄目だったら教えて下さい。

十字架の見える窓で  風が遊ぶ度プリーツを揺らすよ
誰も邪魔をしないで わたし今が全てだから
儚く綺麗な時 大人には解んないでしょう

棘に刺さりながら 少女は今
深い傷を増やして喜びを知っていく
今までとなりに居たあなたから手を離せば最後  もう知らぬ人

教室を抜け出して  見上げた空はどんな青よりも鮮やかで
何にも知らずに笑える二人 春の夢のようね
あなたと一緒だからわたしも生きてゆける

季節を駆け抜けゆく 少女はただ
香る草の匂いも忘れたくはなかった
いつかはこんな事を思い出す時が来るのかなって語りあっている

若さがいつか消える事解ってる
言われなくとも私たち馬鹿じゃない
だけど血を流しても噛み締められないのは
ああ憎いもんだわ 本当知りたいだけなのに

痛みを隠しながら 少女は今
傷を治せる愛を少しずつ知っていく

じゃあまた明日ねって言えること
それだけでほら全部 暖かいこと

棘に刺さりながら 少女は今
深い傷を増やして喜びを知っていく
今までとなりに居たあなたから手を離せば最後
そう魔法の様で
ふと気付けば最後 もう知らぬ人

歌詞表示機能を十分に活用して、駅から家までの道を歩きスマホした深夜23時。
坂の途中で終わった曲に、その場で天を仰いだ。

よく分からん。

よく分からんのだ。登場人物の背景も関係性も、曲としての結論も。
私は誰だ、少女は誰だ、私たちは誰だ?
あなたは誰?ここはどこ?

1個自信があるとすれば、多分この曲のMVには顔の映らない角度で真っ白なワンピースを着た裸足の女の子が芝生を踏みしめてるシーンが出てくる。絶対そうに違いない。

"棘に刺さりながら少女は今、深い傷を増やして喜びを知ってゆく"。
ともすればマゾヒスティックな一文に、
"今までとなりに居たあなたから手を離せば最後  もう知らぬ人"、と続く。

正直勇気を振り絞ってDV彼氏から抜け出す様を描いてしまった。

深い傷から滲む喜びも、手を離すのに勇気が必要で、なのに手を離しただけで切れてしまうような誰かも、私は知らない。

いや、もしかしたら知ってるかも。
でもそれはやっぱり手を離したというより振りほどいた恋人で、知らぬ人になるには同じコミュニティで視界に入り続けた。それで、その人がくれた痛みを喜べるほど無垢にはなれなかった。

もしかして世の中の20歳は、いやむしろ少女たちは、その感覚を知っているのだろうか。

やっぱり分からない。情景の描けるAメロから辛うじて輪郭を描けるかどうかのサビを抜けて、Bメロへと入っていく。

教室を抜け出して  見上げた空はどんな青よりも鮮やかで
何にも知らずに笑える二人 春の夢のようね
あなたと一緒だからわたしも生きてゆける

お生憎真面目で実直な学生の私は、授業を抜け出して青空を見上げたことは無かったけど。

心当たりのない歌詞ばかりが続くのに、2番のサビだけはやけに耳についた。

季節を駆け抜けゆく 少女はただ
香る草の匂いも忘れたくはなかった
いつかはこんな事を思い出す時が来るのかなって語りあっている

ああこれは、私たちだ。

中高一貫の女子校、6年間同じ仲間。
山の中に佇む校舎は正門から徒歩10分の教室。
プロテスタントの流れを汲む毎朝の礼拝。
当たり前のように、全員が塾に通う。
99.99%の四年制大学進学率。
ことさら振りかざすつもりもないが、特殊な環境ですよと大人たちは戒めてくれたし、やはり改めて感じてもいる。

私にとっての煩わしいことが少なかった恵まれた環境。
最低限の品格を保てば、好きに息を吸い、好きに駆け回れた。
男の子がいない環境で、よっぽど漢気のある同級生と何も纏うことなく直接のやり取りができていた感覚。

「努力を馬鹿にされることはありません」と入学前のオリエンテーションで言い切ってくれた先輩の姿を胸に、ひたむきに頑張ることが同級生と対等に渡り合う条件だった。
難関と称される受験を突破したという成功体験を共有し、努力のなんたるかを知っていたが故に、相手の努力に敬意を払う。
常に食うか食われるかの生存競争、ほぼサバンナだったと笑いあったこともある。

このずれこそが母校の持ち味であったけど、伸ばすと同時にずれていることを教え続けてくれていた大人達には、やはり頭が上がらない。

「これからの人生で、こんなに楽に息が吸える世界はもうないだろう」

私たちの共通認識だった。
礼拝でお話をしてくれた卒業生も、言外にその訓示をくれた。あなた達はその中で生きていく覚悟をしておきなさいと。多分に育った自意識を叩き潰されてから、馴染むまで、諦めるまで、戦う気力を取り戻すまで、社会が待ってはくれないのだと。

いつかは絶対に思い出す。
そんなことは分かっていたから、思い出して始めて憧れや郷愁を感じることもない。

忘れない、忘れていない。
教室の空気も、施設科が芝生を生やそうと試みていたグラウンドの朝露も、夕日を背負う講堂の荘厳さも。
窓から見える、十字架じゃないけど宗教的な意味を持つ何らかの壺も。プリーツはなかったけど、はためかせていた試合着の裾も。

私が思い出している。だから誰かも思い出している。
それを確信できるだけの連帯を結んでいる。

背筋を伸ばして歩いていくための縁にしようと。

若さがいつか消える事解ってる
言われなくとも私たち馬鹿じゃない
だけど血を流しても噛み締められないのは
ああ憎いもんだわ 本当知りたいだけなのに

でもこっちは、当時は分からなかった。
「若さ」の価値など。

独立自尊を是とする友人達にとって、庇護を受けなければ生られない若さは弱さに等しい。
中学1年生で入学するや否や、高校3年生が取り仕切る姿に憧れるようにできている。
先輩たちはかっこいい。早く大人になりたい。卒業はしたくない、でも大人になればできることが増える!

歳を重ねること、自分の行動範囲を広げることは、私たちにとって強さと同義で。自由のための必要条件だった。

大学生になって初めて知った。若くあることにこんなに価値があるなんて。

若さを消費されることなく思春期を過ごせたことを幸運だなんて呼びたくない。

人生の1/5を過ぎただけだと言うのに、3年生になると「三婆」などと揶揄されるとは。一女であることを喜んだ記憶もなければ、二女になってなにか変化を感じたこともなかったのに。
心底くだらないと吐き捨てる反面、思ったより尾を引く衝撃だった。

若いとも若くないとも思っていない。別に若いと思うが、高校生と張り合おうなどとはハナから考えていない。
高校生に「おばさん!」と言われたらイラっとしつつも微笑ましいだけだが、同期の男連中に三婆などと呼ばれる筋合いはないなあと思う。

若い若くないなど本人がどう思うか、心の有り様にすぎないという考えは変わらない。ただやはり、相対的な若さが失われていくのは確かなのだろう。
大学生の中なら確かに私は半分より上で、中高生からすればおばさんで、婚活市場には幼すぎる。
新入社員になれば、またしばらくの若さを手に入れる。

しょうもない。どうしようもなくくだらない。
でもそれを自分には全く関係ないと切り捨てられない私は、あの頃の友人達に顔向けできるだろうか。

女という性別が足枷になることもあれば、少しの得を徳をうむこともある。
私が女であることを悪くないと思い始めたのは「女子しか入れない」母校に入ったからに他ならないが、今しがたこの性を八面六臂に使えるほどの可愛げもなくて。せめて「女であること」でする得を大っぴらに拒否することなく甘んじてありがたがり、「女であること」で感じた不条理を男の子に愚痴らないようにする、精一杯の強がりでまっすぐ立つバランスを保とうとしている、ますます可愛げのない状態だ。

若さはいつまでも続かない。
そんな分かりきったことすら、やはり晒されないと気がつかないのは愚かだろうか、滑稽だろうか。
繰り返して繰り返して、「若さ」なんていう性別かかわらず降りかかるものにまた性別のせいで苛まれるのか、なんて。憤懣やるかたなしというよりむしろ諦めに近い感覚を取りこぼす瞬間がどうしたって増えていく。

だけど血を流しても噛み締められないのは
ああ憎いもんだわ 本当知りたいだけなのに

若さは噛み締められない。
過ぎ去って初めて、自分が求められていた役割に、享受していた何かに、その分消費されていたどこかの摩耗に気づく。
自虐を織り交ぜながら努めて明るくその席を明け渡してきた、先達の遣る瀬無さの澱をこの身に引き受けて、今度は笑顔で譲ったはずのその子達に押し付ける。申し訳なさと共感と、少しの後ろ暗い意趣返しにほくそ笑む胸に自己嫌悪を上塗りして。

痛みを隠しながら 少女は今
傷を治せる愛を少しずつ知っていく

じゃあまた明日ねって言えること
それだけでほら全部 暖かいこと

痛いのだ、やっぱり。
喜びを知るための深い傷も、若さを噛み締めるために流した血も。

じゃあこの傷を治せる愛は、誰から誰への愛なのだろうか。

私が私にあげる愛、友人達が私にくれる愛、私があげられる愛。
「愛がないよね」と親にぼやかれ、「心が砂漠だからな」と同僚に笑われるきっと何かが欠如している私には、傷つけられて喜ぶ愛も、傷を治せる愛も、知らない。思い当たらない。そして、どうしても元恋人の姿は思い浮かばない。

そのことを少し悲しめる中途半端な人間性が、余計な孤独感を際立たせる。
どうすることもできなくて、どうしたらいいのか見えなくて、どうしたいのかもわからない。


どうしてこの曲に惹かれたのか。ここまで書いて分かった。

この曲は私の青春時代と今を繋いでいる。

DV彼氏から逃げ出して、新たな優しい恋人を見つけた女の子の未練と決別を歌っているように見えてしまうこの曲が、私のノスタルジーとメランコリーとセンチメンタルにぴたりとはまる。

いつでも思い出して懐かしむあの日々、知らぬところで消費されていた不快と気づくことのなかった浅薄愚劣に対する嘆息。愛を解せぬ己の不十分に迷う子羊。
私の時系列通り順番に。

教えを含まないこの歌は、何度聞いても答えをくれることはない。
でも、なんとなく寄り添って、なんとなく離れていってはなんとなく並走する。私の知らない何かを私に問い続けては、私の返答を待たずに去っていく。
まるで風のように気まぐれに、猫のように軽やかに。
薔薇の鮮やかさで畳み掛け、花の理にあっさり散っていく。


入れるだけ入れたきり3ヶ月くらい放置してたこの曲が、あてもなく全曲シャッフル再生していた私の耳に引っかかったのは、私の心持ちがあの日あの時どこかにいたあの子とリンクした知らせだろうか。
じゃあ、私も3年と3ヶ月後くらいに誰かの嘲笑と慰めのきっかけを頂戴するのかもしれない、と思うとやっぱりSNSは惰性で蛇足で捨てたもんじゃないし、音楽サークルを引退したのにAppleMusicの契約は切れない。

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