掌編小説 現代美術品「殺意」

 紫色の絨毯の先、薄暗い展示場に分厚い「殺意」が展示されていた。

 黒――いや、群青に塗りつぶされた背景にライトグリーンの分厚い絵の具が乗せられている。無機質さすら感じる四角さ。近づいていくうちに、「あれ、油絵ではないのか」と一瞬思った。それくらいの質量で塗りつぶされていた。執拗に、執拗に。

 絵筆の跡を強調しているわけでもなく、丹念に、均質に塗りつぶそうとしている。しかし均質にはならず、こんもりと不格好な塊がほんの少しづつはみでている。この部分がにじみ出ているのだとしたら、なるほど、なかなかいい表現だと感心した。

 「殺意」の傍にはパイプ椅子が置かれていて、そこに一人の女の子が座っていた。中学生くらいだろうか。白いキャップをかぶってにこにこしながら、じっとこちらを見ている。

 十秒くらいは見つめあっただろうか。女の子の表情は変わらず、ほんとうに、少しも、変わらず。目がそれることもなかった。それで私はその子も作品の一部なのだと理解した。

「いい絵ですね」

「はい。――えっと、どの辺りが?」

 女の子は表情を崩さぬまま、駐車場で猫を見つけたときのような声音でそう言った。

「赤くもないし、尖ってもいない。にじんではいるが滴ってはいない。おおよそ人間が日常的にコントロールしている殺意ってのはこんな感じだなって。ただ塗り重ねるんですよね」

「おお、すてきな解釈ですね。ありがとうございます」と女の子は言う。

「あえて即物的に解釈するなら、撲殺、あるいは圧殺ですよね。撲殺ではないのかな。あなたは暴力的な態度を取らないし。――圧力は、かけていますね。そういう笑顔だ」

「まあそんなところでしょうか」と女の子は言う。

 彼女は手に何も持っていない。バットもコンクリートブロックも持っていない。服はぼってりとしたパーカーにありふれたデニムとスニーカー。ごくごく普通の、色気づく前の恰好。美術館の中にいるというのに――卑近さや俗っぽさを恐れていない。

 ただ、パーカーのポケットにどうやら何か隠しているし、頭はキャップを被っていて、短めの髪がむき出しではない。それでいい。含みがあっていい。これはあくまで日常的な「殺意」であり、今も私に向けられているのだから。

「最後に一つだけいいですか。パーカーの色、どうして黄色なんです?」と私は尋ねる。

「もう一つ赤があったら分かりやすすぎますよ」と、女の子は少しだけ表情を緩めた。――ああ、了解。信号機ね。茶目っ気と進行形の追加。何度も黄色と青だけを繰り返すんだ。何から何まですばらしい。

「楽しかったです。ありがとう」

「私もですよ。でもなんだか、あなた探偵みたいな楽しみ方ですね」

 女の子は表情を戻し、代わりに少し毒を吐いた。少し崩して終わるのは狙っているのだろうか。おそらくそうだろう。その方が印象深い。


   〇

 女の子の表情と目つきは誰かに似ていると思っていたが、自粛明けの五月のある日に謎が解けた。得意先の受付嬢だった。

 それまであまり受付嬢の顔なんて気にしなかったので、取次を待つ少しの間、いつもより興味深く見つめることができた。殺意はおそらく、こもっているだろう。しかしそれはコントロールされている。私に向けられているのかどうかは、彼女にしか分からない。

「どうかされました?」と受付嬢は微笑む。ゲスト用のパスをいつの間にか差し出されていたようだった。

 たぶん何も言わない方がいいだろう。この会社にはまた何度も足を運ぶ。

「なんだか、マスクが似合うなと」ああ、言ってしまった。

「え……私ですか?」

 受付嬢は一瞬、無表情になり、それから子供のように目を細めた。

「それって褒めてるんですか?」

「もちろんですよ。特に、分厚くて四角くて丈夫なやつが」

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