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ぼんやりとした差別意識―個別性を剥奪されたマイノリティ―

 マイノリティについて考えてみたい。とはいえ、BLMやハンセン病家族訴訟、政治家のLGBTQへの差別発言など個別具体的な政治問題やマイノリティ運動について述べるわけではない。

 私が考えたいのはマジョリティ側がマイノリティに対して持つぼんやりとした差別意識についてである。
 マイノリティという言葉を字義通りに取るなら少数者ということになる。しかし、マイノリティの語には、マジョリティ(多数派)から圧迫され、抑圧され、マジョリティと同様には権利・義務を行使できない少数者という表象がつきまとう。私たちがマイノリティーときいて思いうかべるのは、黒人、女性、LGBTQ、少し前なら被差別部落、在日、ハンセン病患者などかもしれない。彼(彼女)らに対する私たちが持つイメージはマイノリティの語につきまとう表象とほぼ一致するはずである。

 しかし、ここで立ち止まって考えてみたい。

 私たちはこれらの運動に関わるマイノリティたちに、一定の頑強に固定した表象を纏わりつかせてはいないだろうか。その表象からはみ出るマイノリティたちは、確かに存在するにもかかわらず、私たちマジョリティ側の想像すらしてないのではないだろうか。

 一例をあげれば、黒人のトランプ支持者、靖国に参拝するLGBT 、天皇制を肯定する在日朝鮮人、軍事力増強に賛成する女性などなどである。上記のマイノリティたちは所謂リベラル(護憲左翼)的な思想を持たないと政治的には分類されるだろう。

 私は別に個別の政治問題云々に賛否を表したいわけではない、また、いわゆる、リベラル側(リベラルな立場のマイノリティ)だけがマイノリティ問題に関わってきたと言うつもりもない。そうではなく、マイノリティという存在が十把一絡げに同じ政治的立場で、同じ考え持ち、同じ思いで運動に参画していると私たちマジョリティ側はぼんやりと想像しているのではないかと問いたいのだ。

 私たちマジョリティ側に置き換えて考えてみたい、何かの政治的問題(国レベルの歴史認識問題や集団的自衛権などな大きな問題だけでなく、県市レベルの焼却場の存知の有無町内会レベルのゴミ置き場や街灯の増設などまで含める)について、運動する場合に私たちがマイノリティ運動に持つような同じ政治的立場で、同じ考えを持ち、同じ思いで運動に関わっているような場合はまれだろう。運動への関わりの濃淡を当然の事として、大阪都構想における自民党と共産党との協力や各種知事選でのオール与党体制での選挙戦でみれば同じ政治的立場でとは到底言えないだろう。

 つまり、私たちマジョリティ側では政治的立場や考え思いは異なっていようとも、ワンイシューにおいての団結が当たり前に行われている。そして、当然ながらワンイシューにおいて参集した人々の政治的立場や考え思いの違いは受け入れられている。にもかかわらず、マイノリティ運動に参集するマイノリティについては、私たちは十把一絡げに個別性を消失させた形で彼(彼女)らを表象してしまう。

 運動が団結を要請し、一枚岩としての表象を望む事は理解している。ましてや、マジョリティ側に剥奪された権利を再獲得しようとするマイノリティ側がそう望む事は至極当然だろう。

 私は何もマイノリティ運動が剥奪された権利を再獲得する事に反対するわけでも、分断を持ち込みたいわけでもない。また、マイノリティ運動がさまざまな立場の異なるマイノリティを包摂せよと上から目線で教え諭したいわけでもない。

 ただ、私たちマジョリティ側の人間が、マイノリティという存在を十把一絡げに表象する事をやめにすべきではないかと言いたいのだ。マイノリティもマジョリティも変わらず人であり、数の多少で権利・義務の行使が損なわれていけない。そう考えるからこその運動であるはずなのに、十把一絡げにマイノリティを表象する事で、マイノリティがマジョリティと変わらず持つはずの一人一人が持つ個別性は失われてしまう。私はこれこそ、根深くもぼんやりとした差別意識ではないかと思うのである。

 私たちがマイノリティ一人一人に個別性があり、政治的立場や運動に対する考え思いに私たちと変わらず濃淡があると意識すること、つまり、マイノリティも私たちマジョリティと変わらない人間であるという至極当たり前の平凡な結論を受け入れることこそがマイノリティ問題を解決へと導く一助となるだろう。

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