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発酵の引力

甲田幹夫 『ルヴァンとパンとぼく』 平凡社 2019年

 前回noteにアップした記事が想像していたよりずっと多くの方々に読んでいただけたようでとても嬉しい。どうもありがとうございます。これからも自分が読んで面白いと思った本から得たインスピレーションを言葉にして、みなさんと一緒に食について考えることができればなと思っています。

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 さて、今回取り上げる本は、甲田幹夫著『ルヴァンとパンとぼく』。甲田さんは国産小麦と自家製酵母でパンを焼く「ルヴァン」のオーナーだ。本書は題名の通り、甲田さんのパンづくりの哲学、「ルヴァン」の店づくりや経営、そしてご自身の半生について書かれたエッセイ集だ。巻末には「按田餃子」の按田優子さんとの対談も収録されている。製本には手仕事感があり、ページをめくる手に焼きたてのパンのような温かみが伝わってくる。本書のなかでも特に菌との関係について書かれた文章が面白い。長年に渡って目に見えない菌と付き合ってきた甲田さんの言葉から、なぜ人は発酵に心惹かれるのかを考えた。

 「ルヴァン」の軸は日本の小麦を使い、自分たちで育てた種(酵母が生きている小麦粉の生地のこと)で焼くパンだという。そこから「ルヴァン」ならではの複雑な味わいのパンが生み出される。「ルヴァン」ではレーズンやライ麦などを原料に自家培養したパン種を使っていて、その種は開業以来35年以上に渡り継ぎ続けられている。

 自家培養の種の面白さは、多様性とその調和ではないかと僕は思っている。うちの種にはパン酵母のほかにも、この空間に棲むいろいろな友達が入っていると思う。代表的なのは乳酸菌だ。酸味やうまみなど、ルヴァンのパンらしい味わいは分量計算で出せるものではない。(中略) この空間であることが一番で、菌と共生できる環境こそが大切なような気がする。 

 甲田さんは「ルヴァン」に棲み着く菌に対して「友達」という言葉を使う。そのことに菌への甲田さんの態度をうかがい知ることができる。私たちはぬか漬けをかき混ぜるとき、視覚的に菌を捉えることは不可能だが、ぬか床に生き物の存在を確かに感じることができる。そこには微生物が調和を保って存在する世界がある。発酵に私達が魅力を感じる理由の一つは、目に見えない世界へと想像力を飛ばすことができる点にある。

 しかし、微生物が棲みやすい環境を維持することは簡単なことではない。鳥取県智頭町で「タルマーリー」を営む渡邉格・麻里子ご夫妻の近著『菌の声を聴け』に人間の活動が微生物に与える影響について記されている。麹菌を採取するための蒸し米にカビが発生するのは、人の往来による車の排気ガスが増えたときや農薬の空中散布が行われた後など空気中の化学物質が増えた時だという。渡邉さんご夫妻は天然の麹菌を採取できる地を求めて、店舗を鳥取県の山村へと移転した。微生物と人間が共生するためには店内環境だけでなく、地域の環境を整えることが必要だと説く。


 日々酵母などの微生物と関わっていると、人間が自然を完全にコントロールすることはできないということが経験として分かるのだろう。人間ができることは微生物が棲みやすい環境を整えることだ。そして多様な微生物を生かしてつくる食べものは、予定調和な味ではなく、偶然的で複雑な味となる。それは場と深く結びついた味だ。その場所でしかつくることができない味。それを求めて私達は店に足を運ぶ。

 按田優子さんは「ルヴァン」を「都会の囲炉裏」のようと表現した。例えばスタッフのまかない朝食を近所の人が一緒にとることがあるという。暖を取るために囲炉裏の周りに人が集まるように「ルヴァン」にはたくさんの人が集う。


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