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108「高野聖・眉かくしの霊」泉鏡花

 92グラム。日頃から、文章をできるだけわかりやすく、語尾をそろえる、一文はねじれないように短めに、などとせせこましいことを考えて書く身の悲しさよ。いつ誰がどこでしゃべってるのか一向にわからない鏡花の文章がこんなに魅力的となれば、もう何がなんだか。

 「私」が旅の列車の中で高野山の僧と出会う。一人旅の寝付けぬ夜が嫌いなので一緒に泊まることにし、何か話をしてくれとせがんだところ、若い頃に修行の旅で体験した不思議な話をしてくれるのだ。
  のちに知ったところでは偉い上人だったということだが、なにしろこの僧は変わった人だ。

寝る時、上人は帯を解かぬ、勿論衣服も脱がぬ、着たまま円くなって俯向形(うつむきなり)に腰からすっぽりと入って、肩に夜具の袖を掛けると手を突いて畏(かしこ)まった、その様子は我々と反対で、顔に枕をするのである。

 この「手を突いて畏まった」がよくわからなくてしばし考えたが、どうやら福助みたいな形になって布団に入っているのである。そして顔に枕。
  はじめて会った人が福助スタイルで枕に向かって話しはじめたら普通もっと驚きゃしないだろうか。

 僧が若い頃、飛騨の山越えをしていた時の話だ。途中の茶屋で助平な薬売りに会う。なんとなしその薬売りを気にしながら歩いていたら、どんどん妙な道に入り込むのである。
  まずは蛇づくしの道。橋みたいに大きいのがうじゃうじゃいるのを、恐ろしがって土下座して祈るやら、泣きながら駆け出して転ぶやら、ほうほうのてい。
  やっと通り抜けたと思ったら今度は巨大ヒルの巣である。前後左右とにかくヒルだらけ。あまりの怖さに、思考もおかしな具合になってくる。

凡(およ)そ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被(おっかぶ)さるのでもない、飛騨国の樹林(きばやし)が蛭になるのが最初で、しまいには皆血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代がわりの世界であろうと、ぼんやり。

 ついにヒルによる地球制服説である。ヒルだけあって、世界を統べるのにとりあえず飛騨の奥地からはじめるという予測不可能性だ。くどいようだが、この話は行燈の灯りの中で福助の形の僧が枕に向かって話してるのである。めちゃめちゃ怖い。

 大蛇の道を抜け、ヒルの沼を抜け、青息吐息の若い僧の前に一軒の家が現れ、美人が出てくる。もちろん行き暮れた山奥で見つけるお菓子の家とか美女とかの類には注意しなくてはいけない。古今東西、それは罠だ。人生で一番試験に出るところだ。

 山の美女はヒルに血を吸われて気持ち悪がっている僧を家の裏手の清流で洗ってくれるのである。恥ずかしがって拒むのを無理やり脱がせ、素手で全身の傷口を流す。練り絹のような肌、花のような香り。
 このくだりで、話し手はちょっと素に戻る。

「いや、お前様はお手近じゃ、その灯りを掻き立って貰いたい、暗いと怪しからぬ話じゃ、此処等から一番野面でやっつけよう。」
 枕を並べた上人の姿も朧げに明は暗くなっていた、早速灯心を明るくすると、上人は微笑みながら続けたのである。

 福助、超照れている。枕に顔のくせに微笑んでるのがわかるとは後頭部まで笑っているのか。明るくさせておいてから「何時の間にか、体はちゃんと拭いてあった、お話しするのも恐多いが、はははははは。」とか言うのである。妙な姿勢で浮かれる人もあるもんだ。

 そのまま一晩世話になった若い僧は夜中に怪しげな魑魅魍魎に家を取り巻かれる気配に襲われるが読経でその場を切り抜ける。
 朝、女に優しげなことを言われ引き止められるが、後頭部ひかれる思いで別れを告げる。しかし、やはり引き返して一緒に暮らそうかと悩んでいた道すがら、実はあの女は道に迷った男を色仕掛けで誘い込んで次々獣に変えてしまう、人ならざるあやしいものであったことを聞かされた。

 印象深いのは僧の話のうまさである。今目の前に風景があるように、手に取れるほどの解像度で美しく描写する様は、人生の中でいかにこの一夜をくりかえし再生してきたのかわかる。おそらくはもっとも女体に接近した体験であり、唯一最大の恋なのではないか。

 そういえばこの話は飛騨の山間で法衣から地図を取り出して見るところからはじまるのだ。暑くて面倒くさいしどうせ見ても何もわからないし、でもまあ一応、と逡巡しながら若い僧が地図を開く。
 読んでいる方は、なぜそんなわかりにくいところからいきなり話はじめたか、と面食らう。
 しかしこの話が一世一代の恋の話であれば「あの時あの道を選んでいなければこんな思いをしなかったのに」という地点に印象深く立ち返る気持ちはよく分る。出会わなければ苦しい思いもしなかった。そのかわり、たいして面白い人生にもならなかった。
 そう想えば、いい年しても真面目に恋を引きずり続ける僧の、愛おしさである。


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