フィクションに必要な「取材」について
漫画家のかっぴーです。「左ききのエレン」の原作版を描いてます。
前々から気になっていた事が言語化できたので、シェアしようと思います。フィクションを書く上での「取材」についてです。作り手も読者も、是非読んで下さい!
私の私感ですが、取材対象に対する知識レベルは4段階あると思っています。
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1)知らない状態
→よく知らないし、何となくのイメージで捉えてる。ステレオタイプ。
2)人より知ってる状態
→知り合いに取材対象が居るとか、本やドキュメンタリーを観たとか。人より知ってると思ってる。取材対象のサンプル数が1か2程度。
3)知ってる状態
→積極的に取材した段階で、取材対象のサンプル数が3以上。本や映画などで誰でも手に入る知識は一通り仕入れ済みで、取材でしか手に入らない情報を持っている。
4)実践した状態
→取材対象の領域を、自分でやってみた事がある。当事者。
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1の「知らない状態」でフィクションを描くのが危険というのは一目瞭然だと思いますが、2でも3でも4ですら、ある考え方をしなければ同じ様に危険だと思っています。その考え方というのは…
「色々調べたし(実際やってみたし)知ってるんだけど、究極、知らん。」という姿勢です。究極的には「全部は知らん。」「完璧には知らん。」という基本姿勢が無いと、知識の押しつけになると思うんです。無知の知って言うと大げさだけど、知識があればあるほど、全ては知らないと謙虚になってきます。
つまり「知ってる」と過信した状態が、フィクションを書く時も危険だし、もっと言うと読む時も危険だという事です。「これは嘘だ、取材しろ!」と怒られる事がたまーにありますが、そういう語調が荒いご指摘ほど間違えていたりするんです。ムキになって言ってくる方は、さっきの段階で言うと(2)の「人より知ってる状態」です。例えば、こんな実例がありました。
「広告代理店のクリエイティブ局に、部長なんて居ない!適当に描くな!」
まず事実として「私が勤めてた広告代理店には部長が居た」という事があります。怒ってたのは電通の方なんですが、最大手だからと言って電通の仕組み=広告代理店の全てだと断定して怒るのはどうかなと思いました。
「かっぴーの会社に部長が居たからと言って、それを断定してるから同罪だ!」と思われるかも知れませんが、これが「取材」の重要なポイントかと思うのですが「作品の中で断定はしていない」んです。仮に、私が「広告代理店のクリエイティブ局にも部長職が存在している!これに例外は無い!」と描いていたら怒っていいですが、そうではありません。
確かに、ごく一部の事実を切り取る事で、その業界のイメージを偏らせてしまう危険性もあります。よく言われる「メディアの悪意ある編集」みたいなのが、フィクションも作れてしまうからです。私は業界が長かったので「クリエイティブ部長」が業界の一般では無い事を知っていましたが「目黒広告社(劇中の架空の広告社)に、クリエイティブ部長が存在していたからと言って、業界に対するイメージに何の不利益も無い」という視点が、まず一つ。「目黒広告社は最大手では無いし、組織のしがらみも多く、あんまりイケてない」という事を描いているので、その一つの要素として「クリエイティブ部長」は、しっくり来ました。
・断定(これに例外は無いのだ!絶対そうである!)をしていない
・悪意ある編集(ここを切り取って、イメージを改悪しよう)をしていない
これをクリアしていれば、ある程度のピンからキリまで知識を持った上で「情報を選択する」は許されるのでは無いかと思います。つまり、私は「クリエイティブ部長という存在が全てでは無い事を知った上で、劇中の設定を踏まえて、情報を選択した」という事です。ここまで石橋を叩いたら、きっと問題は無いでしょうが、更に補足したい正しい情報がある場合、単行本のオマケに長文を付けたりしてます。これまで「美大受験に関する背景」とか「広告代理店の服装」とか、1ミリでも誤解がありそうな事は補足しています。
「エレンが最初に落書きした建物は、美術館じゃなくて銀行だよ!バーカ!」
こういうのもありました。実際はもっと厳しい語調で書かれていましたが、とにかく「自分は正しい情報を知ってるから、言わないと気が済まない」というモードに入ってしまったんだと思いますが、これも結論から言うと「あの建物は、あの年代だけ美術館だった」が真実です。確かに、元々は銀行だった建物で、今はまた別の施設となっていますが、あの時代は美術館として開かれていました。と言うか、あそこは私が大きな展覧会をやった思い出の地なんです。あそこをロケ地(あえてロケ地という表現にします)に選んだ理由は、そういった個人的な思い出があります。
ちなみに、ちょっとエモい小ネタなんですが、原作版10巻で光一が、あの美術館に行くじゃないですか。史実では2009年に美術館としては閉館しているため、劇中のあのシーンだけは「美術館ですら無くなっている」んです。エモくないですか。2040年の描写で、再び美術館として登場してるのは、フィクションとして許されると思った、私の願望です。あの建物が、いつの日か再び美術館として開かれたのなら…という願いです。
それで、ここまで書いておいてあれですが、仮に本当に銀行だったとして、実は何の問題も無いはずなんです。なぜならば、劇中で実在の建物名を出していないから。実在の人物のお名前を間違えてるとか、肩書きを勘違いしてるとか、そういうミスはした事があって、それに対しては心から申し訳ない事をしたと大反省しておりますが、あの建物に関しては「ロケ地」なんです。ドラマ版「左ききのエレン」の目黒広告社のロケ地は、普段ネジを作ってる会社らしいです。だからと言って「あー!!ここ!あの会社だ!ここネジの会社ですよ!嘘発見!」とはならないでしょう、という話です。繰り返しますが「建物名を出して、違う施設として描く」とか「シンプルに間違えてる」とか「悪意がある」では無く、私の思い入れも含めた演出であり、ロケ地なんです。
「胸が大きいモデル(ナタリー)が、一流になれる訳が無い!向いてない!」
こんな声も直近でありましたが、これに関してはもう「そんな事無いよ…」の一言に尽きます。モデル業界ではポリコレや人種差別に対する様々な議論がすでに行われているため、本当に多種多様な才能が活躍されています。
取材という視点で言えば、私は広告業界に居た時に3年間ひたすらモデルオーディションをした事があります。また、漫画のためにパリコレに出たモデルにも取材させて頂きました。その上で確かに「胸が大きいモデルは、それを理由に落とされる事もある」という現実も当然知っています。それを恐れて実際より控えめな数字で書かれている事もあるとスタイリストさんに伺った事もあります。でもそれは、さっきので言うと(2)の「知ってるつもり」の段階で、それが全てではありませんよね。
私の基本的な考えとしては「身体的特徴が原因で、夢を諦める」という事が現実にあったとしても、それが現実だとしても否定したいと考えています。なぜなら「それが絶対では無いから」です。例えば「色盲のアーティスト」は現実に存在していますし、彼らの努力を聞くと涙が出ます。描くなら、そっちを描きたいと思ってます。その少数の事例を、勇気が湧く奇跡的な事例の方を切り取ったからと言って、リアリティが無いと言うのは、ちょっと残酷だと思います。
ナタリーというキャラクターが生まれたきっかけは、その辺の「反省」からでした。岸あかりというモデルを描く上で、劇中のいちキャラクターの台詞とは言え、少し断定的な事を書いてしまって反省したんです。
「左ききのエレン」では、あるキャラクターが右に行くなら、必ず左に行くキャラクターを登場させています。天才と凡人という大きな括りでもそうですし、柳さんの様な厳しいキャラを出す一方で、沢村さんの様な優しいキャラも出します。岸あかりは劇中でも「モデルになるために生まれたかのように容姿も骨格も恵まれている」と描いているため、モデル業界のメインストリーム・王道として登場しています。これが例えば「ナタリーはグラマラスだからモデルに向いている」と描いたら誤解があるかも知れません。
ですから、ハッキリそう描く事は避けていますが、ナタリーはモデルに向いてる身体的特徴では無いため、もしかするとハンデになる場面もあったかも知れない。しかしその上で、それを感じさせない前向きさと実力を持っているキャラクター。そう読んで欲しいのです。
ちなみに、そもそも胸が大きいモデルの仕事が限定されてしまう主な原因なんですが、性的な目で見られてしまう可能性があるためです。具体的には、アパレルのポスターなのに「性的だから電車内に広告が出せない」という事がありました。電車は公共の空間なので、掲出NGのハードルがそこそこあります。痴漢を誘発させないとか、そういう理由もあるかと思います。ただ、それって「ふざけんな」と思いませんか?それは性的な視点で見る方が悪いし、痴漢する奴が悪いに決まってる。他にも、アパレル撮影で用意されるサンプルのサイズに合わない(商品撮影をする時点ではまだ量産開始されていないため、平均的なサイズのサンプルしか無い)とか、物理的な原因もあるんですが、それも別に何とかなる話で、とにかく言えるのは「胸が大きいモデルに、非がある訳では無い」という事です。
劇中で、カンヌ広告祭でナタリーのCMが受賞するシーンがあり、そこで観客がナタリーを性的な目で見た発言をしています。「そこまで言うならどうしてそんなシーンを入れたんだ!?セクハラ原作者!」と怒る方も居るかも知れませんが、あれはナタリーの身体的特徴が、劇中で存在している事を描きたかったんです。ただ単にキャラデザインなのでは無く。
「左ききのエレン」の場合、描いてるのはnifuniさんなのでそういった誤解は無いかと思いますが「作画の好みで、勝手に胸を大きく描いてる」という事も世の中には存在すると思うので(笑)そうでは無く、劇中でしっかりとそういう特徴のキャラクターとして出したいと言うか。だから、あのシーンで感じ取って欲しかったニュアンスは「ナタリーがそういった視線に晒され苦労してきた事」です。
また、ナタリーは「男の趣味が悪い」と散々言われてますが、佐久間威風もトラブルメーカーなので、現実社会でもスーパースターなのに発言が物議を醸す系の人っていますよね。ナタリーも佐久間も、週刊誌とかで叩かれまくるお騒がせな二人なんです。だから、ナタリーも佐久間も「世間」には相当やられてきてます。その苦労を感じさせない、圧倒的な才能の輝きと、彼らの前向きさが、本当に大好きだなと思ってます。
ちょっと、あまりに長文になってしまうので、残りの話はマガジンに回りますが、とにかく整理すると、
十分に取材をした上で、その知識量に関係無く「全ては知らない」という姿勢で断定せず、悪意さえ無ければ、物語のために「情報を選択する」事は許される。
と、思ってフィクションを書いています。
「かっぴー、間違えてるよ!」と言ってくる方は、さっきの(2)「人より知ってる」方が多いので、それが故の責任感というか、言わずに居られない気持ちは分かるのですが、出来る事なら「間違えてる」と断定するのでは無く「どうして、あえてこっちを選択したんだろう?」と思って読んで頂けると嬉しいです。
とは言え、もちろん「シンプルに間違えてる」という事はあり得るので、その時はどうか怒らずに教えて下さい…!人間なので、マジで間違える事もあります。全部は知らないので…。
その他、誤解されがちだけど本当はこうだよって話をマガジンで書きますね。
・エレン達が、ニューヨークでアパートを借りられた理由
・カンヌ広告祭の賞について
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