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吉本隆明 『共同幻想論』【基礎教養部】[20240229]

本書は「戦後思想の巨人」と呼ばれる吉本隆明の代表作とされる思想書である。本書を読む上で最も重要だと言える概念は「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」この3つである。この3つの概念が本書を構成する上での一貫した視点であり、そこから「遠野物語」や「古事記」の内容、そして時にはフロイト、ヘーゲル、その他の哲学者、思想家、学者らの理論や哲学を思考していくという構成になっている。そのためまずは「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」の3つを理解しなければ本書で展開される思考についていくことはできない。

ではこの「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」とは何であるか。まず「自己幻想」とは各個人の幻想と捉えていいだろう。つまり我々は各個人ごとに「自己幻想」を有しているということである。そして「共同幻想」とは例えば「国家」や「法」といった我々が共通認識として社会生活を送る上で共有している概念のことだ。最後に「対幻想」だが、これに関しては本書の中でも明確には定義されていない。これを理解するためにはそもそものこの3つの概念を筆者がどういう視点として位置づけたかという部分にヒントがある。

だんだんこういうことがわかってきたということがあると思うんです。それは、いままで、文学理論は文学理論だ、政治思想は政治思想だ、経済学は経済学だ、そういうように、自分の中で一つの違った分野は違った範疇の問題として見えてきた問題があるでしょう。特に表現の問題でいえば、政治的な表現もあり、思想的な表現もあり、芸術的な表現もあるというふうに、個々ばらばらに見えていた問題が、大体統一的に見えるようになったというようなことがあると思うんです。  その統一する視点はなにかといいますと、すべて基本的には幻想領域であるということだと思うんです。

吉本 隆明. 改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

つまり「幻想領域」という領域を構成するのが「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」であるならば「自己幻想」と「共同幻想」の領域の間を埋める役割が「対幻想」にあるということになるだろう。つまり定義よりも役割が先立つ概念であるのならば、なるほど本書の中で役割についての言及される部分がこの「対幻想」に多く、また明確な定義がされていない意味も頷ける。そして本書の提唱する「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」がカバーする領域がかなり広いことにも驚かされる。それはつまり我々の周りを取り巻いているモノのあまりに多くが「幻想」であるということを意味する。本書を読む上でもしかしたら概念の難解さよりもこちらの方を受け入れることに抵抗があり、なかなか読み進められないという人もいるかもしれない。「国家」が「共同幻想」であると言われてピンと来るだろうか。そもそもそういった問題意識を持ったことがある人でないとこの本を読んでもなかなか内容には入っていけないだろう。

本書のようなオリジナリティの強い思想書を読む上でそもそもの扱われている内容に対する問題意識を持っているかどうかというのは、その本の内容を理解する上でかなり重要な要素になってくると私は思う。しかしどこかでその「問題意識」は理解の妨げになる地点が来る。なぜなら厳密には「筆者の問題意識」と「自身の問題意識」は違うからだ。読書をする上で、自身の問題意識、次に理解した知識、その次に知っているだけの知識の順番で理解を助けてくれるがそれぞれどこかで必ず壁にぶち当たる。どれだけ瞬時に正確にその本の内容を読む上で参考になる知識を引用できたとしても、それは自己の変革を読書の中で起こすという観点からすれば自分自身の身体に紐付いた情報には及ばない。しかしその本を読む中でそれほど自分の問題意識に合致して、その本の内容にのめり込み理解したとしても100%の理解などあり得ないということを忘れてはいけない。

他人を100%理解できるなどということは、幻想なのである。

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