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【書評】共同幻想論【基礎教養部】

⚫︎国家に疑問を持つ条件

国家がどのように成立したのか。国家とは何のために存在するのか。

今ではこんな問い自体、誰も考えなくなっているのではないだろうか。今の我々にとって国家とは生まれながらにして当たり前に存在し、現実を動かしているシステムでもある。空気はなぜ存在するのか。そんなことを誰も考えないことと同様に、国家がなぜ存在するのかなど、考える契機がない。しかし、とある一時期においては、国家の存在意義、仕組み、成り立ちを考える契機が出現した。

敗戦の時期である。

敗戦とは、いわば国家の消滅の危機である。消滅とまではいかなくとも、国家権力が行き届かなくなり、半ば政府が存在しないような状態まで行き着いたことは、想像に難くない。そのような状況が発生すれば、今まで我々が見ていたような、思っていたような、感じていたような国家とは一体なんだったのか、なぜ存在するのか、なんのために存在するのか、どうやって成立したのか、問いが生まれるはずである。

吉本隆明は戦争の時に20歳の大学生だったような、遠い昔の人物である。敗戦の経験者でもある。国家とは何か。それを考えるには、十分すぎる動機の持ち主であり、また考える能力もあった。詩人、文芸評論家として、文芸の戦争責任を追求していた吉本にとって、国家を理論的にを追求していくことは自然な流れだったのかもしれない。共同幻想論は、国家を人が生み出した共同幻想として捉えようとする試みである。国家は、契約の元で人工的に生み出されたものでもなく、貴族を守るためのシステムでもない。全員が持つ観念として国家が存在する、という論なのだ。

⚫︎読めない理由

このように動機と試みはよくわかるのだが、じゃあこの本が現代の人にとって読めるのかといえば、よほど強烈で特殊な動機がなければ、まともに読むことは困難である。敗戦が遠くなった現代の我々にとって、共同幻想論は、空気が存在する理由を分析しているようなものである。なぜそのようなことをしているのか、理解に苦しむのだ。空気の存在に疑問を持つような、特殊なきっかけでもない限り、空気の分析は、知識として、文字列として頭に入ってくるに過ぎない。身に染みることがない。人間はどんな時代の本でも、身体的に読めるわけではない、という証として、この本は存在するように思える。実際、吉本は、何かの機会で、今の時代に共同幻想論を読む必要はない、と言っていた記憶がある。共同幻想論が理解できなくても、もはやその原因は我々にあるとは、少なくとも私は考えない。

⚫︎禁制論

前置きをして、ようやく本題に入る。あらかじめ断っておくが、私はほとんどこの本が読めていない。読めていない理由は、能力不足を除けば、上に記した理由通りだ。

さて、この本は、序文から意味不明である。おそらく吉本の言語論や当時の背景を知らないと何も理解できない。さらに1章の禁制論も意味がわからない。全然読めない。目が滑る。文芸作品を引用して、話を展開しているからだ。読みづらいこと、この上ない。文芸評論のために文芸を引用をする場合は、流石に文芸に疎い私でも読めるわけだが、社会論を語るために文芸を引用してくるのは、凄まじく読みづらい。頭に入ってこない。というのも、とある引用からとある帰結が導かれる際に、繋がりが見えないからだ。なぜそうなるのか、特に根拠もなく、当たり前のように話は進んでいく。これはおそらく論文チックに読むのは、適切ではない。文芸評論の延長上にあると考えるべきなのだ。少々根拠は不明瞭に見えても、文芸評論として考えれば、問題はない。引用が多いのも、そう捉えれば納得がいく。

この章からわかることは、個人の観念(自己幻想)の集合体が共同の観念(共同幻想)になるわけではない、という話のみである。むしろ二つは対立する。対立することは、自己と公共性は基本的に対立するものである、というアナロジーから、なんとなく理解はできそうだが、正しいかはわからない。では何が共同幻想への変化していくのか。それは二者間の幻想(対幻想)である、というのが共同幻想論の論旨である。ただ、対幻想なる観念もなかなかに理解不能で、全編通して難解極まるワードとして君臨している。対幻想には性が強く絡むようで、これが理解を困難にしている。

⚫︎憑人論

ひたすら遠野物語の引用が続く。あまりにも読みづらい。朦朧とした意識の状態が自己幻想を生み出し、心神喪失のような状態が対幻想を生み出す、と読めるのだが、全然違うような気もする。そして自己幻想は共同幻想とは対立する、むしろ対立しないところに共同幻想は生まれない、と力強く述べている。相変わらずなぜ対立するのかはよくわからないが、そう言いたい気持ちだけは推測できなくもない。敗戦後の気分として、国家を強く肯定することはできないはずだ。だから国家(共同幻想)と個人(自己幻想)は必ず対立する、というストーリーを持ち込むのは、自然な流れと言える。

⚫︎巫覡論

申し訳ないが、この章は本気で理解不能である。ギブアップ。

⚫︎巫女論

申し訳ないが、この章も理解不能であるギブアップ。性、というワードの意味がもはや解釈できない。この章に限らずフロイトの引用が多いのだが、現代ではそのフロイトの有効性が薄れているのではないか。

⚫︎他界論

やはり意味がわからない。他界とは何なのか。詩人らしく新しい言葉を作る癖あるのだが、そのおかげでわかりづらくなっているのではないか。

⚫︎祭儀論

共同幻想と自己幻想は対立するが、一致するように見えることもある。例えば国家と自分を同一視する場合だ。この見方は、自分が国家から生み出されたものである、という幻想を持っていなければ不可能であるが、現実とは矛盾する。自分を生み出したのは家族だからである。という、最初の部分は理解できるのだが、それ以降は文章が入ってこない。

⚫︎母制論

ここでようやくまともに読めそうな章が出てくる。ここは非常に読みやすい。兄弟姉妹間の幻想(対幻想)が拡大していき、共同幻想と重なり合っていくという論旨で、比較的理解できた気がする。ただし、やはりこの対幻想なる意味は、正直一言では説明できない。一言でなくても説明できない。異性間で生まれる幻想のようにも見えるが、そうでもないように見えるし、定義がよくわからない用語である。

そして、この母制論でも根拠が不明な部分がある。例えば文明が母系社会になっていく理由として、集団婚が行われるような集団では、子の父親が誰かはわからないが、母は明確なので母系社会が形成される、というエンゲルスの理論に対して、そのような状態でも母親は誰が父親なのかはわかるのは確実だとして、反論を展開している。なぜ確実なのか、その根拠は全く示されない。霊感なのか第六感なのか、あの日に交わったのはあいつだからあいつが父親、という思い込みレベルの話なのか。どのような説を採用するかわからないが、いずれにせよ根拠が不明瞭である。

⚫︎対幻想論

対幻想とは一対の男女の間に生まれるものである、と言われているのだが、これがどうも頭に入ってこない。そこに〈性〉が絡む必然性が全くわからないのだ。単に一対の人間、とある個人と個人の間に生まれる幻想、というのであれば話はわかるのだが、どうもそうではないらしい。やはり男と女である。とにかく性、という意味が全く捉えられていないことだけはわかる。

⚫︎罪責論

とある集団が存続するのは、最初にその場を支配した人々への義務を履行し続けるからである、という内容の話である。確かに、何事においても、始祖は無条件に尊重されている。始祖が課した、あるいは後の人が勝手に解釈した始祖への責務が、共同幻想となり、集団を支配する、ということか。

⚫︎規範論

古事記に詳しくなれる。内容は理解できない。

⚫︎起源論

国家とは対幻想から切り離された共同幻想が出現した時に現れる。現れるというよりも、対幻想から切り離された共同幻想こそが、国家の定義であると述べる。そこから最初に国家が生まれたタイミングや、わが国の起原を探ろうとする内容になっている。比較的読みやすい章である。。

⚫︎吉本信者として

さて、私は共同幻想論がほとんど読めなかった。実は大学生の時に読んでいて、その時も意味不明だったのだが、はるか時を隔てた今読んでも、全く意味不明だった。私は吉本信者に近いが、少なくとも共同幻想論信者ではないことがよくわかった。この種の本は、明晰に書かれた文章に慣れていると、全然読めない。吉本の本は色々読んでいるが、全ての本がこのような文章ではない。最後の親鸞などは、共同幻想論とまではいかないものの、それなりに有名な本のはずだが、非常に読みやすいものだった。なぜ同じ著者の本でここまで読みづらさが違うのか。語っている内容が高度だから読めないのか、読めないように書かれているのか、あるいは年代の違いか。後期の吉本の本などは、理解できない部分はなかったように思う。

他に書かれたわかりやすい解説を読んでは見たものの、実際読んでみると、わかりやすいまとめが本書の内容をそのまま伝えているとは考えられない。実際は自己幻想も対幻想と共同幻想も複雑怪奇なものである。わかりやすい解説を読んでわかった気になるのは考えものである、という当たり前の事実にも気づくことができた。

共同幻想論は、吉本の本の中も格別に分かりにくい。読んでいないものの、言語にとって美とはなにか、心的現象論あたりも、私にとっては、読めたものではないだろう。吉本の本を色々読んでみるに、共同幻想論に現れる吉本隆明は、スタンダードな吉本隆明だとは思われない。私は歴史を追ったものではないので、リアルタイムの動向はわからないが、少なくとも晩年の吉本にとって、いわゆる三部作は、あまり意味を持たなかったのではないかと推察してしまう。この三部作が非常に重要であるならば、同じような文体、文調、内容の本がたくさん存在していてもおかしくないが、現実そうなってるのだろうか。全てを読んでみなければなんともいえないが。

吉本は色々な面を持っている人間で、あらゆることを語った人間でもある。なので、全てがひとりの人間に刺さることもないだろう。刺さる、刺さる部分もあれば、全く刺さらない部分もある、それだけの話なのかもしれない。共同幻想論は私には刺さらなかった、という結論で締めたい。

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