#:鬱病とゴッホ

(2022年2月6日 誤字訂正)

 今回のタイトルは、鬱病とゴッホです。

 『鬱病の記録その3』にしたかったのですが、もがきながらも脳裏に浮かんでいたこのタイトル。そして、今回の記事は少し長めです。

 『鬱病の記録その3』にしたかったもう一つの理由は、毎回『鬱病の記録』でインスタグラムのストーリーから、鬱病のリアルタイムな自分を記録していることからです。

 今回、ストーリーにしました。この記事を書いている約2時間ほど前に。

 その1、その2と、2019年といった過去の記録から記事を書いているのに、今回は本当のリアルタイム。(記事を書き上げるのにタイムラグはありますが。)

 苦しくて苦しくて、久しぶりに、お、これは死ぬんじゃないか、という症状。症状といっていいのかわかりませんが、鬱病の特有の、「これ、薬飲んでも駄目なヤツ。」実際に薬はいつものペースで服用済みでした。


画像1

 

 では、なぜこの症状が起こったのか。

 きっかけは、ヘドウィグ。

 スイッチは、フィンセント。


 私は、2021年7月15日に渋谷PARCO劇場で行われた『REVOLVER リボルバー~誰が【ゴッホ】を撃ち抜いたんだ?~』を観劇しました。 

舞台サイト:

https://stage.parco.jp/program/revolver/



 舞台観劇が好きな私ですが、基本的なスタンスとしては、観劇前にメディア等の情報を入れない。観劇する際に、「初めて」を感じたいので、なんとなく、変なフィルターをかけたくないという考えがあるからです。人によりけりですね。

 いくら好きな俳優さんが出演しようが、見るのはメインビジュアルのみ!!

 みたいな私。



 2021年、実際に舞台をみた際は本当に本当に、言葉にするのが難しいのですが、自分史上でも最高に好き(好きというのもまたニュアンスが違うようで、不思議な感覚なのですが、)な演目の1つになりました。

 この時の感想とか、感情とか、思ったこと、どこにも発信しませんでした。隣で一緒に観劇した姉と、閉演後にカフェで熱く語り合ったくらいです。

 私、あまり、感情を表にすることが得意ではなくて…

 

 ということは一切ありません。一切ない。

 ただ、こうして心に響いたことや、視覚から、嗅覚から脳に伝達されたものを、自分の記憶に結び付けて、それをまた繰り返して咀嚼する、という作業が、かなり、「友人とかSNSとかで発信する」には、「あまりにも不向き」という事実。

 なんとなく、このnoteを読んで下さっている方には通じているでしょうか。伝わっていなければ、スルーして下さい。


 


 というような理由で、「あの時、私が感じたフィンセント」が心のどこかに眠ってしまっていたのでしょう。

 勿論、主演フィンセントの安田くんを観たら思い出す、ああゴッホは本当に良かったな。観に行けて良かったな。とか。池内さん演じるゴーギャンはかっこよかったな。あのシーンが良かったな。…




 話は先程の症状がでた、15分前に遡ります。

 今月、観劇を予定している舞台のティーザーサイトを眺めながら、「そういえば、ゴッホは全く映像とか見ていなかったな、」「姉がYouTubeにあがってるよ!って言ってたな、」



 そこで演目のトレーラー映像といいますか、公式で公開されている舞台の映像を見たんです。こちら。

(興味のある方はぜひ。私の書いている記事の内容も少し理解しやすくなるかと思います。)

www.youtube.com/watch?v=CTJoXBVGH98





 ここで、「あの時、私が感じたフィンセント」が目覚めてしまったんですね。まさしく、感情のスイッチでした。


 広がる黄色やオレンジのタブロー、枯れた大きなひまわり、数々の登場人物、持ち込まれたリボルバー、酒、絵具、感情の起伏の激しいフィンセント、テオとゴーギャンの手紙、やつれていくフィンセント、私もその場に存在したオークション会場、どんどん上がる手が増えていきました。そして、フィンセントのいない色の無いタヒチ。

 もっともっと脳裏に浮かんで、消え、私の記憶と結びついていく。私自身の感情を置いて、一人で加速する脳と心。

 

 この舞台は、楽しくて明るい話とは言えないかもしれません。原作の原田マハさんや、演出の行定勲さんの空気感も、間違いなく、あの時感じて心に残っている、ぶり返してくる、言葉にできない何かの要因。


 とにかく私の記憶をかき回したのは、フィンセントでした。あまりにも人間らしすぎるけど、あまりにも芸術家すぎるフィンセントにはとてもついていけない。

 でも、逆を言えば、あまりにも芸術家すぎて、同時にあまりにも人間らしすぎる。人間の本能を剝き出しで生きているフィンセント。あまりにも繊細過ぎるゆえに精神を削っていく、本人すらそれに気が付かない。だって彼の心にはタブローしかないから。


 このフィンセントを思い出しただけで、私の体は一切動かなくなりました。そして段々と苦しくなっていく呼吸。息ができない。蕁麻疹で体中が痒い。本当に、こんな症状になるのは久しぶりで、これは、暫く我慢するしかないな、と、なんとなく、今までの経験から察しました。



 優しすぎる、感情的すぎる、情熱的すぎる、悲観的すぎる。

 そして、「孤独」であること。



 そんなフィンセントの生きている姿で、私の鬱のスイッチが入ったんですね。あまりにも生きることに自分を全部削って、削って、どんどんすさんでいく。人間らしすぎる。人間そのもの過ぎる。

 私のnoteで、度々、よくわからない何か、とか変な何か、

 あとは共鳴・共感といった表現を使います。

 あまりにも天才すぎるフィンセント(フィンセントのファンに怒られそうですが)、「あの時、私が感じたフィンセント」のどこかの部分に共鳴したのであろうと解釈しました。色んな部分、説明できない部分、沢山あります。


 鬱病の経験のある方、今、鬱病で苦しんでいる方、皆々様がそうとは限りませんが、きっと、「生きること」に沢山のものを削っているんじゃあないんでしょうか。たとえ本人が意識していないところでも。だから、私には久々の重めの症状が出た。

 布団にうずくまってもがいている最中です。上記のストーリーの通り、とにかく、この感情を載せなければ、記録せずにいてどうする!という意識がぐるぐると回っていました。その意識の無い間は、私の頭の皮を何かにガッとはがされて、脳の後ろの方で鮮やかな黄色とオレンジのタブロー(おそらく舞台の背景ですね)がずっと存在しているのを、「見られるわけがないのに」、「見ていた」。なかなか恐ろしい体験でした。


 

 とにかく今の感情を吐き出さねば!と出したストーリーの背景が、無意識にも鮮やかなオレンジなのもきっとそう。

 体中苦しいのでいっそのこと刺してくれないか。でも、

 これを記録せねば!記録せねば!と。

 私の感受性が豊かなだけなのか、鬱病の経験があってこそなのか、「今」の鬱病と、「今」の私があってこそなのか。


 鬱で心が苦しい…、のではなく、心も、全身も肺までも苦しくなったのだから、自分にとって2021年当時に私が見た、「あの時、私が感じたフィンセント」は相当なものだったのだなぁと理解しました。


 本当にお芝居って凄い。貰えるパワーの種類であったり、感じることや、その時の環境、すべてが同じではないけれども、やっぱり、私は、お芝居が好きなんだなと思います。

 しかも、一つの人生を歩んでいる、歩んできてた人間が、別の人間を演じる。別の人間になる。これが本当にかっこよくてたまらない。


 約40分にわたる苦しみでしたが、こうして、丁寧とは言えませんが、当時発信することのできなかった感情を吐露することができて良かったです。


※ 恐らく、スイッチは「フィンセント」でしたが、最近の疲労が一度途切れたこと、観劇へ行く際に毎回感じる不安、楽しさと悲しさ、その他沢山の感情が、体調に現れたんですね。


 今、こうして、書かなければ!書きたい!伝えたい!と記事を進めることが出来たので、元気になりました。

 ほんの一瞬の濃い出来事。レポのような、日記のような、独特な記事となりましたが、最後まで読んで下さってありがとうございました。

 きっかけの「ヘドウィグ」についてはまた機会がありましたら記事にします。今回は、大好きな大好きな安田章大さんに関わる(というかそのもの)の記事にもなりましたので、タグは多めに付けています。


 皆様も、疲れを溜めすぎず、どうかご自愛ください。





 


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