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【感想】映画エブエブに観た発達障害の表現

はじめに

私は20代で発達障害(ADHD•ASD)の診断を経験した大人の発達障害の当事者だ。
診断を受けて程なくして映画・アニメ・ゲーム等を発達障害の経験を元に読み解こうとするようになった。
LGBTQ+と表現に関連するワード「クィアリーディング」に触発され、自身の行為を個人的に発達障害(ADHD・ASD)リーディングと呼びはじめた。

今回、ADHDという設定を内包する人物が主人公の映画 『エブリシング•エブリウェア•オール•アット•ワンス(原題:Everything Everywhere All at Once)』を観たことで自分の中でリーディングのフェーズが変わったように感じているので、それを記していきたい。

※本テキストは重大なネタバレを多分に含みます🦝

発達障害と作品のリーディングについて

なぜ発達障害を“読む”のか

外見
内面
仕草
いでたち
etc.

人はなぜか、自分に似ている者を見ると心動かされてしまう。誰しもが100%そうだとまでは言い切れないがそうした傾向は往々にしてあるはずだ。
ここ数年ほど、SNSのかつてなきメジャー化、フェミニズムやBLM等の社会運動、コロナ禍といった社会を揺るがすような出来事を経て、アイデンティティポリティクスが表面化されてきたことを肌で感じている。
これまで続いてきた議論・運動と今日的なムーブメントは賛同・批判を含めた関心を集め、ジェンダーやLGBTQ+、レーション、ルーツに関する誠実な態度が前提として求められるシーンも現れている。

そうした時代の流れは過去の反省も踏まえステレオタイプとは一線をかす表現へと繋がり、多くの名作も生み出されてきた。
そこから影響を受けた新たな表現が生まれる中で、片方ではいわゆるポリコレ批判や「昔は良かった」的なバックラッシュまでもが生じ日々論争を生んでいる。
これは表現が人の心に大きく影響し、人々の精神や社会を形作っている証明にほかならないだろう。

そういった中で、私も例に漏れず発達障害であったり発達障害と重なるような人物が登場する作品を追い求めるようになった。

現在は、発達障害に関係する作品の鑑賞を通して、発達障害がどう見られ描かれているのか、そして私自身が発達障害をどう捉えているのかを考察したいと考えている。
これは発達障害を文化的な多様性としても捉えてみるという、当事者視点での発想に救われた個人的な経験からも由来している。

発達障害とフィクション

『レインマン』1988
『マラソン』2007
『ものすごくうるさくてありえないほど近い』2011
『梅切らぬバカ』2021
『ウ・ヨンウは天才弁護士』2022
『ハートブレイクハイ』2022
『リエゾン』2023


発達障害を扱ったフィクションのタイトルをいくつか並べてみた。
発達障害の設定を持つ人物が登場する作品は探せば見つけることができる。しかし、一般的とはまだ言い難い。
発達障害という概念の誕生から数十年の時を経て、大人の発達障害、女性の発達障害が“再発見”されている今日、発達障害の表現は今なお過渡期の真っ只中にある。

発達障害のリーディングパターン

混乱や誤解を避けるために、私がどのようにキャラクターを当事者と判断しているのかその基準を段階ごとに書いてみた。

〈パターン1:作中で明言される〉
作中でカミングアウトを行うなど、人物が発達障害を自認していることが示される。
本人が自覚または自認しているかは別として、診断を受けたことが確認できるシーンがある。

〈パターン2:それとなく暗示される〉
作中である人物に関して発達障害の専門用語(例:ストラテラ、オウム返し)や名称(例:『レインマン』)を出すことにより、その人物が当事者あるいは発達障害的な一面を持っていると暗に示す。

〈パターン3:制作サイドによって明言される〉
作中では一見断定できないが、作者が明言することにより作品やキャラクターが発達障害の文脈を得る。

どのパターンの表現が上とか正解と言う気はないし、表現の種類は多様であった方が良いと考えている。

上記3パターンとはまた変わって、診断の有無を示されていない、発達障害とは限らないキャラを発達障害/発達障害的と読むことも一応は可能だ。
しかし、読み手側が一方的にそれと断定するのは何かしらの暴力性に繋がる可能性を常に持つし、そこに悪意や差別的な意図が伴う場合、悪しきステレオタイプやスティグマの再生産に繋がる。

「発達障害リーディング」を試みる際には、それ
相当の知識と照らし合わせながら、客観性と慎重さを持って読み解きや発信を行うことが必須だと自戒もこめてここに記しておきたい。

エブエブについて語ろう!

前置きが長くなってしまったが、これらを踏まえた上でエブエブにおける発達障害の表現について話をしていきたいと思う。

鑑賞直後の感想とその後

エンディングが終わった後、謎の高揚感と多幸感を覚えた。
登場人物達がカンフーを駆使し宙を飛び交う非現実的な画面が続くのにも関わらずなにかパーソナルな形で勇気づけられたように思われ、数日はエブエブのことばかり考えてしまった。

インタビューや感想を漁る中、ADHD(注意欠如・多動症)が作品の着想となったと知り、再び劇場に足を運んだ。
発達障害の文脈を含んでいることを踏まえた上で鑑賞したところ、随所にADHD/発達障害的なポイントが散りばめており非常に驚いた。

エヴリンと発達障害

本作の主人公は、アメリカでコインランドリーを経営する移民の中年女性 エヴリン。
彼女が物語で最初に出くわす“対戦相手”はなんと、かの多くの発達障害パーソン(というか人類)を苦しめてきた確定申告なのだ。

・確定申告でやらかす
・春節のパーティの準備
・ランドリーの客の対応
・彼女を連れてきた娘
・中国から来た父の介護
・何か言いたげだが要領を得ない夫
・日々の雑務
etc…!!

ADHDでなくともこんがらがってしまいそうな状況だと理解できる。
しかしここでエヴリンが完璧主義でそれ故追い込まれてしまうこと、身近な家族にきつく当たってしまう等、ADHDとしての生活の難しさが容赦なく描かれている。

物語は国税庁に舞台を移してから大きく変化を迎える(もっぱら役所の中で物語が展開していた点にも驚かされる)。
頼りない夫に見えていたウェイモンドが、エレベーター内で突如“別の宇宙”から来たaウェイモンドに切り替わり、マルチバース(多元宇宙)を守る戦いに参戦しろと告げてくるのだ。

このシーンで驚かされた点は、aウェイモンドのセリフに発達障害の支援やセフルケアで多様される定型句が挟まっていることだった。
「深呼吸」「(エヴリンは)特別」といったセリフは後の展開の中でも度々登場するが、これは物語上のセリフ兼主人公のADHDへの呼びかけという二重の意味を持っているように聞こえた。
身体をマルチバースに適応させるシーンでも、マシンのディスプレイの脳の画像やフラッシュバック的な演出が示唆的に映ったし、マルチバースという設定自体も発達障害と関係深いやり直し願望的な「人間関係リセット」を思い起こさせる。

エレベーターを降りた後、国税庁税務官ディアドラの難解な説明を聴いているとエヴリンの混乱はピークを迎える…と同時に、初めて意識の「操作」に成功する。
ここでも、いつの間に別のことを考えてしまったり 
、寝てはいけない所で何故か力尽きてしまうといった一見「不注意」的な行動によってそれが果たされる。
別の宇宙と繋がるための「バースジャンプ」は、ディアドラへの愛の告白という奇妙に見えて他のバースでは自然な行為の遂行によって達成されるが、これは「儀式的行動」とも重なる。

その後、忙しないカットによる怒涛の展開が続く中でこれはエヴリンの視点そのものを見せられているのだと気付いた(そういえば脳内BGMのように音楽もずっと鳴っていたのだった)。

ちなみに作中ではADHDや発達障害といったワードは出てこない。
エヴリンはADHDの設定を持つキャラクターとしてはレイシャルや世代の面でイレギュラーだが、個人的に最もインパクトがあったのが彼女が無自覚なADHD当事者である、という点だった。

エヴリンを演じるミシェル・ヨーは2023年現在で60歳。エヴリンもそのくらいだろうか。
この設定は家父長制社会での「女性の発達障害」の見えずらさや、文化的な複雑さ故の発達障害・メンタルヘルスのケアの受け入れられ難さを想起させる。

私にはエヴリンが、どこかでこんなはずではなかったという思いを抱えながらも、日常のタスク処理に慌ただしく流され何もできなくなっている大人の発達障害の当事者そのものに見えて仕方がなかった。

ダニエルズ監督も、エヴリンがこれまで自身が発達障害だと気づけなかったのは決して不自然なことではないとインタビューで語っている。

作品の着想がADHDに由来していること、エヴリンがADHDの設定を持つことを制作サイドが公式に公表し、それにより無自覚なADHD当事者のエヴリンというキャラクターが立ち上がったのだ。

ジョイと発達障害

エヴリンとウェイモンドの娘であるジョイについても触れたい。
冒頭でジョイは中国から来た祖父ゴンゴン(公公)に恋人を紹介すべくベッキーを実家に呼んでいる。子供が親や家族に自身を理解して欲しい、認められたいと望むのは決して不自然なことではないだろう。

ワン家のルーツである中国では今もなお同性愛がタブーとされている側面があり、エヴリンがゴンゴンへの娘の“ガールフレンド”の紹介を躊躇するのはわからなくもない。しかし、エヴリンは決していい母親ではなく、むしろ「毒親」と言っても良いくらい辛辣にジョイに接する。

最初、思い詰めているのか泣きそうにドラム式洗濯機の丸窓を見つめていたジョイに対しベッキーは「深呼吸」とサインを送った。
50〜60代と思しきエブリンとは対照的に、若いジョイやベッキーがADHD/発達障害を知っていてもおかしくはない。直接的な描写がなかっただけでジョイは自身が発達障害、あるいはその傾向がある事を自覚していたのかもしれない。

ワン家と発達障害

エヴリンは中国系米国移民ファミリーの母/妻/娘である。主人公の家庭内での立場を多面的に描くことで、発達障害の遺伝や家族関係の問題がストーリーに組み込まれている。

ゴンゴンのエブリンに対する「また空想に浸っている」「何ひとつ成し遂げた事がない」、エヴリンからジョイへの「だらしない」等の説教は、世代に渡る親子関係の問題と発達障害の遺伝の可能性を物語っている。

エヴリンのADHDがジョイに遺伝していたとして2人は発達障害の当事者同士ということになるが、その経験は大きく異なるだろう。

発達障害当事者のひとりひとりがそれぞれの多様なスペクトラム(発達障害の形)を持っている。それは、当事者同士といえど無限の壁や断絶が存在することも意味する。
親子同士の衝突は誰にでもあることだが、そこに発達障害が加わると状況の困難さは増す。
互いが発達障害や二次障害の問題に苦しみつつも、子供世代(ジョイ)に対し、親世代(エヴリン)が「それでも我々はなんとかやってきた」と抑圧的に接することは往々にして起こりえる。
別バースでもエヴリンとジョイの関係性は安定しておらず、aバースではエヴリンに追い詰められたジョイがジョブ・トゥパキとなり宇宙を破壊する事態にまで発展してしまう。

また、夫/父親であるウェイモンドがエヴリンがそれに気付いているかに関わりなく家庭内でエヴリンのフォローに徹してきた様子が見られる点に関しても次で触れる。

ウェイモンドの立ち位置

娘(エヴリン)に対し極めてパターナリスティックに接するゴンゴンとは対局に、ウェイモンドは作中で多角的にエヴリンを支える役として活躍する。
作品で描かれていたウェイモンドの多様な面を以下2点のポイントから見ていきたいと思う

1:aバースから来たウェイモンドと、いつものウェイモンドのギャップ

エヴリンからほぼ袖にされていたウェイモンドが勇ましいaウェイモンドに切り替わる際のスペクタクルには息を飲んだし、カンフーシーンのaウェイモンドの格好良さには驚かされた。キー・ホイ・クァンの演技の賜物。

2:バースを超えて共通するエヴリンを支えるウェイモンドの姿勢

どのバースでも一貫してエヴリンを思い、支えるウェイモンドの姿には心打たれた。

しかし、aウェイモンドはジョブ・トゥパキが相手となると一貫して彼女を「倒す」存在として位置付けており、ジョイと戦うことに躊躇するエヴリンとは対立する立場となる。
aウェイモンドのこうした姿勢には、ウェイモンドの内なる父権的な面や、ジェンダーギャップを由来とする父娘関係(あるいはそれをファンタジーとして描くこと自体)の限界も組み込まれていのではないか。

ジョブ•トゥパキとの死闘の末、aウェイモンドは絶命する。それにより再び戻ってきたあのいつものウェイモンドがエヴリンに本当に必要な戦い方「 Be Kind(優しさ)」を伝え、それが後の展開の大きな鍵となる。

これほどの優しさと「力」を持つウェイモンドだが、エヴリンでなければジョブ・トゥパキのベーグル・プロジェクトを止めることはできなかったのである。それは何故か。

なぜエヴリンでなければならなかったのか

劇中では、ジョブ・トゥパキによる宇宙の破壊を止められる者はエヴリンしか居ないことが度々強調される。なぜエヴリンでなければいけなかったのか、発達障害というポイントを中心に考えてみたい。

ジョブ・トゥパキ=ジョイは、エヴリンに反抗し彼女を避けているのかと思いきや、度々エヴリンの元にみずから現れ語りかける。

「同じものが見える人を探していた
 同じことを感じる人を」
ージョブ・トゥパキ   

ジョイはクィアであると同時に発達障害の当事者でもあり、現実に対するやるせなさと将来への絶望を由来とした深い消滅願望=黒いベーグルを抱えている。
そんな中、ジョブ・トゥパキとして多くのバースを観る能力を得、発達障害の遺伝の可能性も踏まえた上で、根底ではエヴリンに対して理解しあえる可能性を見ていたのではないか(それ故にエヴリンに深い失望を抱いてしまう瞬間も度々垣間見える)。

冒頭でエヴリンはジョイを理解せず(皮肉にも理解のある親で幸運だと言いながら)突き放す。しかし、様々なバースを経てカンフーからクィア性に至る自身の可能性とジョイの苦悩を身をもって経験する。
様々な抑圧によって覆い隠されていた、選べなかったけどもしかしてありえた自分≒他者性をバースジャンプを通して自己受容したのだ。

「怖いから 混乱しているから戦うんだ」
「優しくなって 自分を見失った時は特に」
ーウェイモンド

最終的にウェイモンドの「優しさ」を学び開眼したエヴリンは、全てを無にする“黒いベーグル”の向こうへ消えようとしてたジョイの気持ちを正面から受け止め、この宇宙で共に居たいと伝える。

度重なる挫折と混乱でいっぱいいっぱいになり周囲と攻撃的にしか関われなくなってしまったエヴリンが、自己理解と優しさを通して誰かを救い、自身も救われる。

発達障害と共にある人生と、生きていれば誰にでも訪れるようなマインドの変化・成長を、これほどの鮮やかな飛躍とカオスをもってして表現したことは見事としか言いようがない。

改めて感想

私がエブエブによって得た経験は
この人物はおそらく発達障害なのだろうと推測しながら作品を観ることと、これは発達障害(ADHD、ASD、LD、その他スペクトラム)を描いた物語でもあるのだと認識しながら観るのとでは、体験としてあまりにも異なるのだと今までになく気付かされたことだ。

監督が公式でADHDをカミングアウトし、当事者としての経験や感覚が大きく反映されたエンタメ作品が現れるとは、かつては夢にも思っていなかった。
エブエブは今後の発達障害表現の大きなターニングポイントとなるのではないか。

発達障害は自覚に至るまでの困難さという問題があるし、当事者は大なり小なり診断に至るまでに混乱や周囲との衝突の中でもがき苦しんだ経験を持っているだろう。自覚なき当事者の、良くも悪くも混沌とした世界に生きているというひとつのリアルを、本作はカンフーSFという奇妙な形式で描ききった。
エブエブは発達障害やメンタルヘルスの文脈を取り入れながら、それを力と物語に作り変えた傑作のひとつだと捉えている。

一方で、監督の発達障害の語りに関し、日本の公式パンフやメディアの記事では「患う」や「治療」等の医療的なワードを中心に言及されたものが多くを占める印象を受けた。
発達障害は確かに病的とも言える一面を持っているし、治療的なアプローチが必要であることは勿論だ。しかし、発達障害を一概に病や障害と言いきってしまうことで見落とされる面もある。

医療や研究が発展していく中で医療的な視点に限定されない多様な発達障害の語りは今後重要性を増していくと思うし、少なくとも当事者である私はそれを求めている。

そんな願望と希望を観せてくれたのが『エブリシング•エブリウェア•オール•アット•ワンス』という映画だったと改めて記し、ここで一旦締めさせていただこう。


最後まで読んでいただきありがとうございます🦝🧑🏻‍🍳
ラカクーニは最高

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