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帰結する先はいつも

すり減って、無駄に性格悪い言い方をしちゃって、ひとりで自己嫌悪に陥る。ひとつひとつに丁寧にしたいのに、優しくなりたいのに。かと思えば、「いつも元気でいいね」と言われると何かがつかえる。暴力的な気持ちが湧いてくる。あちらこちらからすり減るのと角が取れるのとはわけが違う。作り笑顔で生成されるエンドルフィンでは賄えないものもある。

本当は、誰かに理解して欲しい。心休まる居場所が欲しい。誰にも受け入れられない私の中の世界をすべて、分かって欲しい。最終的に理解はされなくても、私の見ている世界に興味を持って、私を理解したいと、必死になってみて欲しい。私の言葉をこぼさず拾って、整理して、考えて、確認して、私を知りたいと思って欲しい。きっと、これが私の必死に隠している本音。

そんなのは無理と分かっているから、奥底に押し込めている。合理化して、自分で自分を認めることが一番大事だと頭で思い込もうとしている。すり替えている。だって私も本当の意味では何者も理解できないから。自分にできないことを他人に求めることがいかに滑稽かと思うから。他者に求めることが愚かで、自身で認めてあげることが課題だと、理論的に結論づいているのに。自分でできないから「誰か」や「何か」を求めることが、あまりに無知な欲求で恥ずかしい。頭では分かっているのに、できない。

できない。

みんな、そんなには他人に興味を持てない。私も、簡単には他人に自分を明かせない。裏も表もないはずなのに、壁だけは無駄に厚くて、いったい何重になっているのか自分でも量れない。もしも本当に理解されたとしても、拒絶するのは目に見えている。私はそんなんじゃない、誰にも理解できないと、自分で突っぱねるくせに。理解されないと分かっているから理解されたいと思えるんだ。皮肉っぽく、理解してみろと思うんだ。矛盾している。

いつになったら拮抗する思考の渦から抜け出せるのだろう。いつも逆説ばかりを追って、疲れて止まるまで頭の中で駆け巡る。考えることに疲れる。だから物語や音楽に逃げるけど、結局は媒介となる感情に溺れて、感情について考える。私は今何を感じているのだろう。感覚は鈍いけど、知覚はできる。感情もあるけど説明できるほどは近くない。好きじゃない、嫌いじゃないは言えるのに。好きと嫌いはなぜこんなにも判定が難しいのだろう。なんとなく息苦しくて、時々金魚になった気分になる。涙が出そうになるのが、何か思いがあるのか乾いているのかすら分からない。

他人に求めてはいけないから自分で満たそうとするのは、正しいようだけどあまりにも濃い。他人に求めてはいけないからと他人に期待をしなくなるのは、ずいぶんと浅薄だ。ならどうすればいいのか、分からない。正解なんてないから、いつも些細なことで悩んで迷って、振り返って考えている。正しさは他人を傷つける。正しいことが正解ではない。両極端に振り切ることが潔さなのかも分からない。

きっと、他人の評価に依存せず、自分の力で切り拓き、でも結局は自分一人の力では成し得ないから、感謝する。そういう姿勢でいること。理解されないことに絶望するのではなく、理解しようと努力する姿勢を維持すること。そういうことなんだ。すれすれのラインだから、そういう道から外れず進み続けるのはハードで、いつも綱渡りみたいで、しかもゴールなんてなくて、だから身体も精神もすり減るんだろう。ナチュラルにできる人とは違って、考えているから。考えることをやめたら、私はどんなやつになるのだろう。生きることは苦しい。人の輪の中にいても、ひとりきりでいても、寝ても、食べても、遊んでも、発見しても、満たされない。いつも何かを探していて、私は答えを知る前に死ぬだろう。あと何十年かそこらしか肉体は存続できないのなら、その期限の範囲で生きた意味を統合するしかない。結局は自分で意味づけをするしかないのだ。歯車の一部にしかすぎないのに周囲にはある程度の影響があり、欠けたら影響はあるけど歯車は回り続ける。虚無主義なわけではない。自分次第というだけの話。すべては選択の結果だ。すべて繋がっているのに、この先は自分で1秒ごとに選んで決めて進む。それが重くて、あまりに重くて時々休みたくなる。放棄したくなる。でも私は放棄を選択することはない。どれほど疲れて押し潰されそうでも、なにものにも折られない野心がある。自分で納得するまで、私は放棄を選べない。そしてそれもまた選択であり、果てしなく積み上げられていく責任に参りながら、生きる。どうしたって、私の生は苦しい。野心に生かされ、野心に苦しんで、生きる。これからも。

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