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優しい先生でありたくて、子どもにそう接していたらクラスが崩壊した話

クラスを経営する教師としては、子どもへどういうスタイルで接していくか、戦略的に考えるべきです。

スタイルというのは、例えば「優しく接する」とか、「厳しく接する」とかです。

私は初任のとき、このスタイルの選択で大きな失敗をしました。

私はよく友達や同僚から、「優しい」と言われます。
人に厳しく当たったり、人が嫌がることをしたりはしません。
元来の性格からして、優しいんだと思います。(自分で言うと寒いですが)

その地のまま、教員1年目を過ごしました。
つまり、子どもに初日から「優しく」接したわけです。

するとどうなったか。想像してみてください。

はじめは、子どもたちは新鮮な気持ちで教室で過ごします。
私も気分がいいです。
褒めたり、認めたりしながらクラスで授業をする毎日でした。

ですが…

GW明けて、しばらくすると…クラスに陰りが出てきます。
教室がなんとなく騒がしい。
授業中の私語が多い。
忘れ物が増えてきた。
教師の指示が通らない。

私も初任者だったから、とにかく情熱でアタック!でした。
だから、大きな声で指導したり、思いを語ったりしました。
結果、毎日注意、指導、お叱りの毎日になりました。

優しさはどこへやらです。

「優しさだけではだめだ! 厳しくしないと、クラスがどんどん悪くなっていってしまう!」

そう気づいて方向転換しました。
細かなことをネチネチ注意し始めました。
笑いが消え、怖い顔と胸の前での腕組みが増えました。
休み時間も「監視」が増えました。

その頃には、こども同士の喧嘩も増えました。
よく「先生、○○くんがちょっかいかけてきます」
「やめてって言っても、やめてくれません」

そのたびごとに、その男の子に注意します。
でも、注意の言葉が届きません。
真剣に聞かず、ヘラヘラしています。


舐められたんです

子どもはシビアです。
「この教師は、僕がこれをしても叱らない」
「ここまでふざけても大丈夫」
そう値踏みするやいなや、子どもは大人を越えてきます。

要するに、「舐められた」んです。

その頃には、クラスは崩壊寸前でした・・・。


私は初任者だったし、生来の性格もあり
子どもには優しく接していました。

それが正しい教育だと思っていました。

ですが、それは勘違いでした。
単に私は、「甘い」教師でした。

子どもを甘やかしても、ろくなことはありません。
甘やかすことは、支援ではありません。
緩やかな毒を与えているようなものです。

そう気づいて、方向修正しても無駄でした。
もう子どもたちは、少なくとも頻繁に注意した男の子にとっては、
私は「甘ったるい先生」「注意を聞かなくてもいい先生」というポジションになってしまったのです。

子どもへの接し方

子どもにどういうスタイルで接していけばいいか。
私が初任の頃に学んだ教訓は…

「はじめから優しく(甘く)しない」です。

え? 優しい先生がいいなぁって思ったあなた。
私の学校の世界観では、優しくするには「軸」が必要です。

「軸」なき優しさは、甘い毒、甘い呪いです。
本人も教師も気づかぬうちに、崩壊へ進んでいきます。

「軸」というのは、
物事の価値判断に対する筋の通った思い
のようなものです。

ちょっと説明しづらいのですが…

例えば、友達にちょっかいを出す、ということに対して、
あなたはどう指導しますか?

ちょっかいを出すということを分析すると、様々な要素が見えてきます。
・相手は嫌がっている
・自分はかまってほしい
・反応があるから楽しい
・ちょっかいを出さないと、自分は相手にされない
・かまってほしいが、適切な行動が分からない

ざっと考えただけでこれだけ要素分解できます。
私にとっての「ちょっかい」に対する価値判断の「軸」は

・相手は嫌がっている

・かまってほしい
があります。

つまり、ちょっかいを出してくる相手は、かまってほしい人なんです。
あなたのことが好きです、ということです。
でも、その行動が相手にとって受け入れられない。
だから、「ちょっかい」という言葉として相手に受け止められてしまんです。

そこまでわかったなら、指導のときに
「ちょっかい出すのをやめなさい!」と単に指導するのではなく、

「相手は嫌がっているけど、それでいいのかな?」
と考えさせたり、
「ちょっかいを出すってことは、かまってほしいということかな?」
と掘り下げてみたりできます。

そうすると、ちょっかい以外の方法を使えば、相手も嫌な気持ちにならずに自分のことをかまってくれるようになるかもしれません。
そう考えると、ちょっかいに対する指導の方向が見えてきますね。

長くなってしまいましたが、つまり

教師の言動には、筋の通った価値判断という「軸」が必要だということです。

舐められてしまうのも、教師がそういう価値判断をせず、「軸」もぶれぶれで適当だったことを、子どもに見透かされてしまったからなのかと考えました。

結局、2年目からは同じ轍を踏まないように気をつけました。

つまり、

「厳しい側面をスタートに見せておくことが大切」と考えるようになりました。

厳しい側面とは何かというと、
「曲がったことは許さない」という価値判断です。

教師は曲がったことを許さない、と子どもに思わせることができれば、子どもは自分から大きく曲がったりしないようになります。(当然、例外は常に存在しますが)

いい意味での厳しさを、はじめに見せておくこと。
それが、子どもの「問題行動」への抑止力になります。

「この先生は普段は優しいけど、曲がったことは許さない人なんだ」
と思わせることは、威圧でもないし、パワハラでもありません。

いや、100歩譲って威圧だとしても、
それが及ぼす教育効果を考えると
大切なことに思えます。

最近の教育界では、
「教師はファシリテーターだ。随伴者だ。」と言われます。
なんて甘美で、理想に満ちた言葉なんでしょう。
舌触りが良くて、気持ちいい言葉です。

でも、内実はいかがでしょうか。
教師はファシリテーターかもしれませんが、それは授業中の話です。

それに、教師にとって大切なことは
「子どもが安心して学習に向かうことのできる環境を整えること」
です。

だとしたら、鬼の片鱗を見せつつ
子どもを笑顔で守っていく。
その姿は、間違っているのでしょうか?

菜根譚

中国の箴言集ともいえる『菜根譚』に、こんな話があります。

人に恩恵を施すには、初め手薄くしてから後に手厚くするがよい。先に手厚くしてあとで手薄くすれば、人はその恩恵を忘れるものである。また、人に威厳を示すには、初め厳しくしてから後に緩やかにするがよい。先に緩やかにしてあとで厳しくすれば、人はその厳しさを恨むものである。

『菜根譚』洪自誠著 岩波書店 p181

ヤンキーの接客でもそうですが、見た目がヤンキーでちょっと怖い感じの店員さんが、めっちゃ丁寧に接客してきたら、どう思いますか?

何故か高感度が爆上がりしませんか?

逆に、見た目優しそうな男が、結婚したら急にDV夫になるとか、愛情が薄いとか知ったら? 何故か失望しますよね?

もしあなたが「クラス経営」で困っているのでしたら、
クラスのスタートのときには「厳しさ」と「優しさ」をどう両立させられるかを、戦略を練って実行しましょう。

軸の通った指導に、子どもがついてきます。
4月からスタートするのが最もいいですが、そうも言っていられないので、節目を見つけてスタイルを変更してみてください。



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