論文雑感①「近代的統治戦略としての〈均衡化〉」

山田唐波里、2019、「近代的統治戦略としての〈均衡化〉ー「人工方程式」の編成と政策論への導入ー」『社会学評論』70 巻 2 号 p. 128-145
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr/70/2/70_128/_article/-char/ja

私が仕事をする時にいつも関心を向けているのは、人口動態である。それは、①たまたま大学の家族歴史社会学の授業で近い内容の話を聞き、ほどほどの知識があるから、②人口の変化は働き方改革から地価の見通しまで幅広い社会問題に応用可能であり、一粒で二度も三度もおいしいから、③この視点でそれなりに突っ込んで考えることのできる人が少ないらしく(河合 2017;国立社会保障・人口問題研究所 2017)、他の人と差別化を図れるから である。
今でこそ公の職員が「人口問題」について考え、施策を打つというのは自然な発想に思える。だが、それは本当にいいことなのか?それはいわば、「ベッドに公権力が介入する」ことだ。総理大臣や厚生労働大臣は、あなたたちのベッドでの振る舞いをきちんと見ています。どんなふうに、どのくらい子供を作り、その子たちがどんなふうに育っていくか、ちゃんと見てあげます。というわけだ。これであなたはベッドで某首相の顔を思い出すことになりますね。オエー。


本題に入ろう。今回採り上げる論文は、そもそも日本において「人口問題」が公の場で議論されるようになった際、何が問題にされたのか、そこにはどのような規範が働いているのかを明らかにしたものである。

きっかけは、米騒動であった。1917(大正7)年に、富山県の漁村の主婦が暴れたことから全国に広まった、「日本最大の暴動」(栗原 2013=2021)である。第一次世界大戦の始まった1914(大正3)年と比べて、東京米価は2倍になっていた(五味・鳥海 2009)。貧しいおらっちゃ、まんでたぶるもんないじゃ~。じゃあ、どうするか。焼き討ちである。米商人にも、精米会社にも、突撃だ!いけ~!!ガハハ、これが越中のヴェルサイユ行進やちゃ~。これには滑川署の警察もびっくらこいて逃げ出してしまった。ヒエ~。当時の寺内内閣は軍隊の出動と米の安売りでようやく鎮めることになるが、世論の非難から退陣に追い込まれる。

さて、こんなことはもう繰り返してはならない。ここで注目を浴びたのは、人口論の政策への導入である。例えば人口論の有名人マルサス(英、1766-1834)は、人口の増加ペースは食糧の増加ペースを上回る、という趣旨の主張をした。食べるものがなくなるほど人が増えてしまう。そんなことにとなれば人々の生活不安を招く。食うか食われるか、homo homini lupus!! 人々は私利私欲をむさぼり、社会主義・デモクラシーなどの国民の統一性を破壊する危険思想が蔓延し、そして生じたのが、今回の暴動だったじゃないか!!(???)ということで、1927年に公的諮問機関として人口食糧問題調査会が設置され、対策が講じられることになった。

ここでまとめられた答申によると、継ぎの通りで「人口問題根本対策」をうつとされる。それは、①生産力増進、②生活資料の分配、③生活標準、④人口調節である。・・・アレ、(食糧)生産力増進と人口調節は分かるとしても、「生活資料の分配」と「生活標準」ってなんだ?そこには、「人口方程式」の〈均衡化〉を目指すという規範が、「何が人口問題か」を決める力を持っていたという事情があった。

「人口方程式」とは何か。そもそも、人口の増減で問題になるのは食糧だけではない。例えばマルクス(独、1818ー1883)は人口問題を職業問題や失業問題としてとらえた。食糧がいくらあっても、富めるものはより富み、貧しいものはより貧しくなる資本主義社会である限り、職からあぶれる労働者は生まれ続けるであろう。「来月から、キミの2倍働くマシンを入れるから、もう来なくていいよ。」グエー。こうして仕事に対する労働者人口は増え続け、労働力の供給過多になる。生産されたものを、ちゃんと人々に「分配」する必要がある。そのためには、こんな社会ぶっ壊せ!!革命だ!!!というわけだ。

一方で、一人が消費する生産物が常に一定とは限らない。日本はすでに先進諸国に並ぼうとしている。そんな中で、まだ「明日食べるもの」についてなんだかんだとしているんですか???たとえ生きられたとしても、明日から一日に米2合だったのが1合になり、木綿の服が麻になったら、怒りますよ。という考え方もある。人は従来の「生活標準」を簡単には捨てられないのだ。

以上をまとめてつくられたのが、「人口方程式」である。それはシンプルなもので、
「分配係数 × 生産力 = 人口 × 生活標準」
である。そして、これの〈均衡化〉、つまり「人口方程式」の等式が成り立つように4要素を調整することが、人口政策の肝とされたのである。

このあと、論文ではフーコーの「統治性」についての議論を援用して、統治性が「人口」の水準に作用することで、人々の振る舞い(例えば、暴動を起こす/起こさない)を導く働きのあることが示される。これは軍隊出動で騒動を止めるような単線的な権力や、監視による規律化とは異なる戦略だという主張で論が閉じられる。


米騒動について調べてたら面白そうだったので読んでみた。多分、最後の「統治性」についての議論がやりたかったんだろうと思うが、人口方程式やその政策化の仮定の部分のほうが印象に残った。

まず、当たり前だけど触れておきたいこととして、今はみんな人口を増やすために躍起になっているけれど、そもそもの議論の起こりは増えすぎた人口にどう対処するかというところだ。
その意味で、当時の議論が「人口を減らす、ないしは生産力を上げる」という一方向的な見方ではなく、「人口方程式の〈均衡化〉」を目指すというニュートラルなものだったのが、率直にやるねぇ!と思った。
今でも人口方程式がそのまま使えるとは思わないが、多少無理して使うとすれば、人口減社会は人口は減少するものの生活標準はプラス志向が強い(20年経っても生活が上向かないのはおかしいじゃないか!!)ので右辺は変化なし、一方で高齢化社会で人口減もあるので生産力はマイナス、すると〈均衡化〉のためには分配係数を上げて生産物を平等に分けないと・・・とかだろうか。
フーコー自身が特に人口政策の分野で「統治性」の権力に着目しているのは興味深い。日本国憲法第24条で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するとされており、国や自治体が「キミたち、結婚して子供産んでネ」なんてことは言えやしないし、恋人の夜の営みの世界には監視の目は入っていけない。現在の少子化対策についても、「令和2年度版 厚生労働白書」では、「子どもを産み育てやすい「環境づくり」」(厚生労働省 2020)を掲げており、「統治性」のアプローチで考えることができると思った。


参考資料
河合雅司、2017、『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』、K講談社現代新書
国立社会保障・人口問題研究所編、2017、『日本の人口動向とこれからの社会 人口潮流が変える日本と世界』、東京大学出版会
栗原康、2013=2021、『大杉栄伝 永遠のアナキズム』、角川ソフィア文庫
 ※米騒動についての記述の妥当性はともかく、文体にインスパイアされた。
五味文彦・鳥海靖編、2009、『もういちど読む 山川日本史』、山川出版社
厚生労働省、2020、「令和2年度版 厚生労働白書-令和時代の社会保障と働き方を考える-」
https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/kousei/19/

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