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会の趣旨と目標について オリエンテーション1/3

 読書会初回となる本日は、オリエンテーションとして3つの話題をもってきました。1.会の趣旨・目標2.場の管理(トレーニングにおける安全性)3.トレーニングのための方針です。このエントリではまず、会の趣旨についてお話しましょう。

会の主要な目標:「何が書かれているか」を理解する

 案内頁に記したように、この会の目標は、「哲学者は、哲学について、同僚研究者ではない人に向けてどのように語るか」の例を知ることです。なので、ここで行おうとしているのは、まずは「調べ物」の一種だといえます。
 この会では、皆さんにこの目標に付き合っていただきたいのですが、そこから出てくる最初のお願いは、こうなります:

  • どの発言も、「そこに何が書かれてるか」に結びつくことを目指して行ってほしい。

 これがもっとも大きな趣旨の確認です。

 このお願いについて三点補足します。
 一つ目。行為には常に失敗の可能性がつきまとうので、個々の発言にも、「目指したが到達しなかった(到達に失敗した)」ということはありえます。その点はもちろん許容しますが、最初から「そこに何が書かれてるか」の理解に資するつもりのない発言は許容しません。逆にいえば、この制限の範囲であれば、どんなことを述べていただいてもかまいません。
 二つ目。そもそも規範的主張は「できることの範囲」を出発点にとり、それに対して制限をかけるものなので、そこにはスキルに関する前提が含まれています。目下の例だと、「書かれていることに関係あることを述べよ」とか「書かれていることの理解に資することを述べよ」というルールは、「〜に関係あること・〜に資することを述べることができる」という能力を前提しているわけです。しかしまさにこのスキルこそ、私たちがトレーニングのターゲットとしているものなのでした。なので実は、ここには循環があるわけです。
 三つ目。ここにはもう一つのスキルも控えています。つまり、他人の発言を「〜に関係あること・〜に資することを述べている(かどうか)」という観点から判断する能力です。そしてこちらもまた、同様に、私たちがトレーニングのターゲットとしているものに含まれています。

 したがって、上の「お願い」は、まずは「つもりがある」かどうかだけを問題にしており、「実際にできたかどうか」は問題にしていません。もちろん、会の場で為された発言は、他の参加者から「実際にできていたか」について評価を受けますし、そこでは「つもり」と「実際に為したふるまい」との合理的な関係が問われます(つまり、「つもりだった」だと言い張ればなんでも通るわけではありません)。本会は、訓練の場として、そうした失敗や能力の欠如は、最初から見込まれたものとして扱います。つまり、失敗や能力の欠如によって叱責の対象となったりすることはありません(が、それが他の参加者に危害を加えるものであった場合には、その限りではありません)。また、どうしたら「〜に関係すること・〜に資することを言う」ことができるのかについては、オリエンテーションの3で述べます。

 さて。私たちは、この主要目標が我々の誰にとってもすごく大事なものだと考えているわけではありません。「哲学者は、哲学について、同僚研究者ではない人に向けてどのように語るか」などということは、基本的にはどうでもいいことです。でも、この主要目標は、この主要目標のもとで設定できる副次目標のために役に立てることができるのです。

副次的な目標:「他人が書いたものを読む」ためのトレーニングをする

 大人になると、他人が書いたものを読む機会は著しく増えますが、読むための訓練を行う場はほとんどありません。私たちはこの読書会を、他人が書いたものを読む訓練をする場にしたい、と考えています。これがこの会の副次的な目標です。

 読む訓練をする場が少ないのはなぜでしょうか。それはよくわかりませんが、明確なニーズがないとか、教えるのが難しいといったことがあるのかもしれません。

 ニーズについて言えば、特定ジャンルや特定の作業に関するニーズであれば、存在するわけです。たとえば、「行政文書の読み方」「技術文書の読み方」「調べ物をする技術」といったものです。そしてこれらに関する教授の多くは「知識の伝達」として行えるので──もしくは、「行える」と想定されているので──教える側の人材もいちおう確保しやすい。しかし私たちの関心はその手前にあります。
 「他人が書いたものを読んで理解する」という課題は、知識の問題だけでなく技能の問題を含んでいます。そしてまさにこれが、教えにくい理由を与えてもいるのでしょう。技能は〈できる/できない〉という区別に関わる事柄ですが、まず一般に、これを言語化することからして難しい。それは、「自転車に乗れない人に自転車の乗り方を教える」といった例を思い浮かべてもらえばすぐに理解していただけるはずです。そしてまた、こと「他人が書いた日本語の文章を読む」という課題になるとさらに──我々は基本的にはそれを「読めている」という認識のもとに社会生活を送っているわけですから──、「読めてない」と気づくこと自体が難しい。むしろ、仮に「読めていない」ということにでもなれば、下手をすると生活の根本に対する不安が生じかねないので、「読めない」という事態に直面した場合には、我々は、ふつうはその原因を個別の文書の側に帰属しているはずです。──「分かりにくく書かれているのが悪い」「難しい文章だから読めない・知らない分野だから読めない」というように。ともあれ、本会は全人類に参加してもらおうと呼びかけているわけではなく、すでに「トレーニングをしたい」というニーズのある方に集まってもらっているわけなので、「なぜ訓練の場が少ないのか」という話はここまでとしておきましょう。本会の副次的目標が技能に照準していることまでは述べることができたので、先に進みます。

 技能は「如何にしてことを為すか(how to / know how)」に関わる事柄ですが、前エントリでは、私たちはこの課題に理由と反省をともなうかたちで取り組みたい、と述べました。ここにすぐに付け加えなければならないのは、理由や反省は、それだけでは技能に届かないということです。それは「自転車の乗り方」を思い浮かべてみれば明らかでしょう。自転車の乗り方をどんなに詳細に記述・分析してみても、自転車に乗れるようにはなりません。「読む」だって同じです。この会ではこれから、「ことを為すために身体をどのよう制御にすればよいか」という提案と「なぜそうすべきか」というお話をセットで提示していきますが、それを聞いても技能が身につくわけではありません(そしてこれが、「このエントリーの内容自体は本会のウリではない」ということの理由でもあります)。提案にそって実際に自分の身体を動かすのでなければ、この会に参加している意味はありません。ここで こんな当たり前のことをわざわざ述べるのは、「読む」という活動を過度に精神的なものだと特別視している人たちがいるからでもあります。

 そして私たちは、この訓練を、この会の主要目標(「何が書かれているか」にフォーカスする)と、この会のセッティングである「他人といっしょに読む・他人に向けて話す」という条件を重要な契機として用いながら実行しようとしてもいます。この点については別途お話することにしましょう。

知的な課題としての技能への反省

 前項で述べたように、理由づけや反省は、それだけでは技能には届きません。ではなぜわざわざそんなものを加えるのでしょうか。もちろん、「技能を上昇させ・制御するのに理由や反省を使うため」が最初の理由です。しかし、最大の理由はそこにはありません。
 それは、本会が「ノウハウの伝授」を最上位の目標とはしていないからです。私たちは「参加者の読解技能が上昇すればそれでよい」とは考えていないわけです。そうではなく、私たちが「技能」という話題・課題をとりあげるのは、この話題が知的に難しく、面白い話題だからです。「できるようになる」という結果だけが重要で、それを可能にするものについての考察は必要ない、という方針で生きていく人がいてもよいとは思います。が、この会ではそういう方向は目指していません。私たちは、「できるようになる」を最上位の目標とするのではなく、その上に「知的に面白いことを共同で考える」という課題を置いているわけです。そしてここまでくるともう、「人生がときめく読み方・考え方の魔法」といったタイトルは会にふさわしいものではなくなるでしょう。

 会の目標についてはここまでとして、次回は、オリエンテーションの二つ目として、場の管理についてお話しします。


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