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開催日までにやること オリエンテーション3/3

 本会では、一冊の本に3回を使います。その際、初回は書籍全体を、二回目はそのうち3つ〜4つの章を、三回目は1つ〜2つの章を、という仕方で、取り上げる範囲を絞り込んでいく形で進めます。また、参加者の皆さんには、その都度の対象範囲を、事前に三回以上は読んでくるようお願いしています。オリエンテーション3では、この毎回の事前読書において、皆さんに、実際に自分の手を動かして実行してほしい具体的な作業*について(その概略を)お話しします。作業は3つあり、このうち [B] は読書会参加者全員で共有するものです:

  • [A] PDFを加工する。

  • [B1] 予備作業ファイルをつくる。

  • [B2] コメントを執筆する。

 各作業は、以下の一つの方針を具体化したものとして導かれています:

  • [1]「何が起きているか・何が行われているか」を主導的な問いとする

  • [2a] 主導的な問いを文書**について問う

  • [2b] 主導的な問いを読み手の反応について問う

 これらのもう一歩詳しい提示に進む前に、このエントリでは幾つかまえおきを記します。

* [A-B] はあくまで「事前準備」であって、読解が進むにつれて、できること・為すべきことは更に増えます。が、それは実際に読み進めるなかでお話すべきことなので、ここには記しません。

** ちなみに、ここでは書かれたもの一般を指すのに「文書」という言葉を使いました。読書論・読者論において広く使われる「テクスト」という言葉を使わないのは、一方では 人文主義臭を避けるため、そしてそれだけでなく人文主義に対して距離を取るためであり、他方では──同じことですが──ある種の文書(典型的には文学作品や哲学書など)だけを特別扱いしていないことを明示するためです。ついでに述べておくと、以下で文書の作成者に触れたいときには「文書作成者」という語をシンボルとして用います。「シンボルとして使う」というのは、「実際の作成過程や実際の関与者たちの詳細について まったく知らなくても使える言葉として使う」という意味です(この語が前提しているのは、「作られたものには、それを作った人たちがいる」という自明な事柄だけです)。更についでに述べておけば、「作成に関与した者のどこまでを文書作成者に含めるのか」といった問いは、読み手の問いとなる前に、まずはなにより関与者たちによって取り組まれなければならないものであり、彼/女たち自身によって──たとえば著作権・原盤権・頒布権といった観念を資源として用いることによって──それに一定の決着をつけたあとのものが読み手に提供されるのが普通でしょう。

まえおき

 これから一つの方針に基づいて読解作業の手順を記していくわけですが、私たちは、「これこそが正しい読み方だ」と述べる気は まったくありません(そもそも我々は、普段の生活の中で、自分の置かれた事情や自分自身の意向などに応じて さまざまなやり方で文書を使っているのであって、同じ一つのやり方だけを以て対処しているわけではありません)。それを前提としたうえでここで提案するのは、まずは「その都度の自分の意向や事情に応じた読み方を 自覚的に選べる ようになりましょう」という程度のことです。選ぶことができるためには、幅のある複数の読み方ができるのでなければなりませんが、この会で取り上げるのは、特に「成果物に対する厳しい要求もなく特別な作業目標もなく時間的余裕がある」という条件──ふつう読書会がそのもとで行われるだろう条件──を満たしているときにのみ実行可能な読み方だけです。しかしここを伸ばし鍛えることなしに、読み方のバリエーションを増やすことができないことは自明でしょう。

 特定の課題や強い制限が課されていないときには、読み手は──単に文書を自分自身の関心に従わせる仕方で読むのでなく──文書自身が取り組んでいる課題により強く指向した仕方で文書を読む余裕を持ちます。そしてそのときには、読み手は、〈その都度与えられた文書を、その文書それぞれにふさわしい仕方で読むことによって、これまでに自分が考えたこともなかったことを考える〉という目標を立てることができます。これで、以前のエントリに記した目標の、最初のパラフレーズをすることできました: 「何が書かれているかを理解する」という私たちが立てた目標は、否定的なかたちで表現するなら、「自分に引き寄せて読む」とか「自分なりの読み方で読む」とか「自分の関心に応じて読む」とか「当座の課題・目的に資するものを探しながら読む」といった読み方をしない、ということを意味します。私たちはこの、「文書を、それぞれの文書にふさわしい仕方で読む」という課題に、「その文書の読み方を、その文書の組み立てられ方に応じて決める」という仕方で応えることにしましょう。以下ではこの読み方を、手短に「文書を文書に即して*読む」と表現することにします。

* しばしばこうした論脈では〈内在的な読み/外在的な読み〉といった表現が使われますが、私たちはこれを使いません。つまり私たちはここで、それとは別のことを述べています。──と書きましたが、正直にいうと、私にはこの区別を使って行われる議論が、いつもほとんど理解できないのでした。そもそも「書かれたものの内側」とは、具体的にはそして正確には、いったいどこを指すのでしょうか。それを誰がどうやって決めるのでしょうか。このことからして私にはわからないのです。

 〈これまでに考えたこともなかったことを考える〉という課題は、単に考えることによってはクリアできません。そこにおいてまず──だけでなく最後までずっと──重要なのは、考えずにできることをすることです。文書に勝手に触発されるのではなく、文書に即して読み・考えるためには、〈見れば言える・考えなくても把握できること〉を足掛かりとしなければなりません。しかもそれは、単に「私には考えなくてもわかる」というだけでなく、「それを見た人なら誰であれ考えなくてもわかる」ものでなければなりません(そうでなければ、まず文書作成者が、それを文書作成資源として用いることができなかっただろうからです)。

 他方しかし、文書の読解をもっぱら〈見れば言える・考えなくても把握できること〉に依拠して進めることには、二つの大きな欠点があります。

 一つ目。我々の社会生活は「お互いが共通に知っていること・わかっていることはわざわざ言わない」という強力な経済原則に支配されています。〈見れば言える・考えなくても把握できること〉は、わざわざ言うべきではない事柄なのです(経済原則に抵触する振る舞いは、ときには居合わせた人にとって敵対的なものに見えることすらあります)。そしてまた、振る舞いがスマートに、発言が流暢に、やりとりがスムースに感じられたりするのは、〈見れば言える・考えなくても把握できること〉を的確に踏まえたうえで・それには敢えて触れずに済ませることができるときです。したがって、「見れば言える・考えなくても把握できること」をわざわざ明確化しようとする活動は、物分かりが悪く*、洗練されておらず、ぎこちなくてわざとらしく見えるでしょう。

* とはいえ。実際のところ、この点についてはあまり心配していません。哲学にもなんらかの重要性はあるのだろうと考え、お金を払ってこの場に集まっている時点で、この会には、何らかの点ではスマートではない人たちが集まっているはずであり、私たちはそのことを当てにしています。(これで、会のタイトルに「哲学」という語を含めた また別の理由について述べたことになります。)

 二つ目の欠点。〈見れば言える・考えなくても把握できること〉に定位すると、作業の歩幅は小さなものとなります。結果として、作業量が膨大であるように見えたり、複雑に見えたりするでしょう(そして派生的には、複雑なものは、それだけで「高度なこと」や「難しいこと」に見えたりもします)。これは取り組む気を失わせる理由になりえます。

 ここでやろうとしているのは、自分がいつもオートマティックに行っていることを反省する作業なので、それが面倒であるのはある意味では当然のことではあり、どうしようもありません。とはいえ、作業に慣れればもっぱら〈見れば言える・考えなくても把握できること〉に定位して読解を進めることが ほぼオートマティックにできるようになるのですから、これは慣れによって解決する問題ではあります。

 また、小さな歩幅で進むことを窮屈に感じるひとも多いでしょう。実際、この作業課題は参加者に強力な箍をはめようとしてはいます。テクストに(!)触発されて(!)勝手に想像力を羽ばたかせてしまうことを「自由な読み」と言いたいのであれば、確かに そうした自由を強力に制限しようとしているわけです。この抗議に対して私から言えるのは、「触発に基づいて想像力を羽ばたかせてしまうこと*を、「読む」の中心に置こうとするのが そもそもおかしいだろう」、です。

 以上を前置きとして、次のエントリからは、個別の作業とそれを導く方針の概略をお話していくことにしましょう。

* こうした仕方で摂取されるものの典型にポルノグラフィーがありますが、私はここで、そうした摂取の在り方(そしてまた基本的にはそのように摂取されることを狙って作られる作品・ジャンル)自体を否定しようとしているわけではありません。

次回→1. 読解の方針と準備作業の概要

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