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なにを証明したいんだ

 週5で働くことになったし同じペースで文章を書くことにするかと思い立ったが実は週5で書くことなんてほとんどない。結局、いつかどこで書き記したような文章を書くことになる。私は映画を何度も見直すのと同じように何度も書き直すことは苦ではない。最高な気持ちも最適な思いもリフレインして波のように上下するだけだ。

『ダークナイト』は混乱の道化師ジョーカーがなぜジョーカーたり得ているのかを映し出す。バットマンに慣れ親しんだ者にはジャンクフードのような満足感を、そうではないものにはサイケデリックな刺激を与えた。ジョーカーが存在する理由は、多くの作品でも語られているとおりだ。
光と影、コインの裏表、古典的な表現ではあるがバットマンはもはや古典の域に達しているので正確な表現と言える。バットマンが存在するからジョーカーが存在する。

『JOKER』ではジョーカーがなぜジョーカーになり得ているのかを写しだしている。彼のアイデンティティとは、彼の生活とは浮き彫りにした作品だが知っての通りジョーカーとはシリーズ通して嘲る使者である。この映画事態が彼の壮大な冗談の可能性も捨てきれない。メタ的な視点でこの映画に触れることと、頭の先から爪の先までたいらげようと威勢よく構えていると感想は全く違うものになる。前者は地に足つかない薄気味悪さを後者は人間社会にミンチにされた悲しい物語だ。ただ一点、信じることができるシーンがバットマンの誕生だ。ジョーカーが引き起こした混乱でブルース・ウェインの運命が決まることになる。ジョーカーがいなければバットマンは生まれなかった。後の『ザ・バットマン』でもバットマンという存在がいなければ誕生しなかったであろうヴィランが登場しているが『JOKER』で映し出されたあるシーンはすんなりと受け入れ続けていたバットマンという存在を新たな角度で映し出すものだった。僕らがバットマンの苦悩やジョーカーの掴みどころのない冗談に苦笑いしている間に「バットマン」という作品は新しい世代へと新たな解釈を委ねようとしているのだ。

 キャラクターたちは常になにかを証明しようとしている。ジョーカーも自身が引き起こす混乱のなかで人の心底にある醜さを暴こうと、証明しようとした。(結局、それを証明したのは『JOKER』だったわけだけど)薄く引き伸ばした毎日を送る僕らがなにかを証明する機会は少ない。けれどなにかを証明しなければならなくなったときジョーカーのようにならないとは限らない。人間のことを信じている人間ほど心の奥底にあるものへの確信は強い。わたしは人の心に誰も付け入る好きのないほど高潔な魂があると信じています。わたしはジョーカーのようにはならないでしょう。それこそ証明できないわけだが。

寿命が伸びます