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我らは滅びゆく、おのおの1人にて

 目の届く範囲にいる何者かが何かをやめると知ったときの寂寥感には未だ慣れない。肌の瑞々しさは年々失われていくのに心の肌年齢は歳を重ねる毎に潤いを増して、したたり落ちる水滴でプールができる。

 慣れる必要はないのかもしれない。毎日誰かが何かをスタートさせて終わらせている。何かの終わりに一々感情的になっていたら身が持たないよと、指摘を受ける。それでもきめ細かい心は器用になにかの終わりを感じ取り、絡め取り込んでいく。

 彼のアイデンティティに殉じた者たちの哀惜を追う。そんなことをする必要は本来まったくないが、見て見ぬふりができぬ性分がツイッターのタイムラインを無限にスクロールさせる。

 僕はタイムラインで嘆く人たちほど悲しみを共有できない。息切れせず彼を追い続けていたわけでもないし、本当の悲しみや苦しみ、痛みは共有できない、という思いもある。それでも「お疲れ様でした!」という言葉の裏にある苦虫を噛み潰したような表情と穴の空いた身体からざらざら流れる銀色の砂を想像することは容易い。

 わかるけど、わからない。どっちつかずの気持ちを片手にタイムラインを追っていく。毒づく者もいれば、ただ悲しむ者もいる。
 共有した時間がいくらあろうとも、消えるときはそれぞれ1人ずつだ。彼も消えて、彼に殉じた者も消える。記憶は残り続けるが思い出は色あせ消える。どうせいつか忘れてしまうのに、そう思いながらも誰かの人生を切り取ることをやめられない。これって自罰的な行為だったりする?

寿命が伸びます