2次創作が趣味ってなに。

なんだかんだ、20年くらい二次創作活動を続けている。2000年4月、高校デビューと同時に始めているので、23年目?である。2020年4月って、僕の好きなバンド『BUMP OF CHIKEN』で言えば『THE LIVING DEAD』をリリースしたのが2000年3月だ。個人の感慨としては、あれが22年前ってことに思わず遠くを見てしまいたくなるけれど。

僕がやっている二次創作は小説で、しかもジャンルは『新世紀エヴァンゲリオン』1種類しかない。いわゆる97年の旧劇直撃世代で、当時中学1年生が、(すこしだけ年上の)登場人物たちの有り様に衝撃を受けたわけなんだけれど、あと10年で碇ゲンドウの年齢になろうとしている今でもその呪いに関わり続けることになるとは、二次創作をはじめた15歳当時はもちろん、20代の頃だって想像もしていなかった。今やただの趣味だとすら言い切れると思うんだけど、それにしてもこの二次創作≒同人活動にお金と時間を費やす意味ってなんだろう、という気持ちになる時がある。今回のエントリとしては、そのことを少し考えた話を残しておく。
この話はつき進めると『趣味とは何か』『推し活を趣味とすることとは』『資本主義とは何か』という話にまで射程があるので、深入りするには僕の力が足りない。書き手である僕の社会的立ち位置のバイアスもすごい出てくるので、平等性を欠いてもいる内容になるだろう。
まあ、気楽に書くとする。

まずもって、趣味には2つあるよね、ということを最近思った。趣味にも『受動的趣味』と『能動的趣味』がある。もちろん0か100かではなく、そこにはグラデーションがあるし、人による部分も多い。どちらかに優劣をつけたいわけでもない。
ただここでは少し、能動性を良しとする書き方をすることになると思う。
さて、趣味は何か?と言えば人の数ほどあるかもしれないけれど、スタンダードなところで言うと、
・本を読む
・映像を見る
・音楽を聴く
・どこかへ行く
といったことになるだろう。ものすごーく大枠で言うと『何かをする』ことはすべて趣味となり得るだろう、自分がそれをすることで快感や充実感を得られるならば。
今日言いたいのは、趣味で得られるのは快感なのか、充実感なのかということになると思う。今日の僕の感覚で言うと、前者は『受動的趣味』によって得やすく、後者は『能動的趣味』によって得やすいのではないかということだ。
さきほど『趣味=何かをする』と書いたが、もう少し正確に言うと『何かから得られる結果』と『何かをすることそのもの』ということで枝分かれすると思う。前者が『受動的趣味』、後者が『能動的趣味』と位置付けてみる。

例えば、
・映像を見る
・音楽を聴く
といったカルチャーに触れる行為全般は、その行為そのものよりはその先にある刺激を受けることが目的なので、受動的趣味に分類される。
その一方で、例えば
・農作物を作る(食生活をこの作業に依存しない場合の)
・運動をする(結果は問わない場合の)
・考える、瞑想をする(結論は問わない場合の)
といった行動は、行為そのものを目的とし得る。もちろん、ダイエットという数値的結果を目的とした運動もある。その際は恐らく『受動的趣味』に分けられることになる。
サービス業とは『お金を払って快楽を得る』ことになるので、お金を払うという行為そのものに充実感を憶える(成金の億万長者とかそれっぽいなと思う)人たちならともかく、我々はそこで受ける歓待を目的としていて、それらは世間に溢れている。
僕はそうしたものの、カウンター(あるいは疑似カウンター)として『推し活』があるという気がした。推し活は、推しの経済的価値を高める行動をする、と僕は分類していて、対象が市場経済において価値のある存在だとアピールする行為だ。これは、資本主義が『みんながいいと思えるものにお金が投資される』という構造をハッキング、あるいは従属している行為とも考える。推し活という行為によって『これ(推し)はいいものだ、価値のあるものだ』と世間に認知させることに繋がる行動を取っている。これは結果的に『私の推しは市場経済価値があり、世間の目に触れられる機会が保たれていることが望ましく、市場経済的マジョリティに位置していてほしい』という行動のように思える。
僕はずっと、エヴァについて二次創作という形で関わり続けているけれど、上記のような活動をしたことはない。なぜならエヴァという創作物を『自分にとって一番大切なものであればよい』と思っていて、それが世間や世界と接続されていて欲しいと思っていない。
でも、例えば『煉獄さんを400億の男に』とか『庵野監督を100億の男に』といったハッシュタグと共にファンダムを形成し、世間をハックする行為はそれらとは真逆である。
僕はこうした意味での『推し活』は極めて『能動的趣味』であると同時に『自分が市場を形成する一部になれた』という快楽装置でもあると思っているし、後者は極めて現代的な資本主義の装置として機能しているなと感じる時もある。
ちなみに、もちろん『推し活』の形も様々であろうから、そこを一義的に分類するつもりはないです。あくまで『市場経済における推しの価値を高めるという意味での推し活』として捉えていただきたいです。
ということで『ヲタが行う二次創作活動』と『推し活』は違うであろうし、推し活も様々であることは当然でありつつも、趣味ってものも目的が色々だよなって話である。

僕は自分の二次創作活動が、いつの間にか『能動的趣味』であるらしいことに最近気がついた。もちろん感想は嬉しいし、同人誌が売れれば買い手のいる方角には足を向けて寝られないぜと思う。結果天に足を向けて寝るしかないぜ、というどこかでの誰かの後書きに首がもげるほど頷きたくなったりもしている。
けれど僕は『自分の思い入れのあるキャラクターを書くという行為で深堀する』という行為そのものに意味を見出していることも多いようで、それができるととても充実感がある。
しかもこれらは市場経済の論理からするとまったく無意味だ。社会的な生き物としての僕の論理とは別の軸となっている。そこがよい。そこにこそ意味がある。だから翻ってみると、働き出してからの創作ペースはがた落ちなんだけど、精神的に不安定なほど書くモチベーションが高まっていったりする。それも忙しすぎると体力を削られ気力もないぜ、となるのでバランスや多寡はありますが。
ということを考えれば、エヴァの二次創作界隈が落ち着こうとも僕はこれらを辞めるということはなさそうだ。少なくとも、エヴァンゲリオンへの思い入れが残り、創作行為そのものが趣味であるうちは。

創作行為が趣味、というのはなろう小説やカクヨム、Pixivなどを見ていても確実に昔より育っている。環境がそうなっていったというより、市場経済の論理から外れた行為が休息になると感じる人が増えたから、その受け皿が増えたのだろう。
創作行為は自由だ。その結果の出来不出来には、厳然とした差異があることさえ自分が許容できれば、きっと楽しい趣味だろう。趣味を突き詰める人、ゆるくやる人、みんながいるべきだ。それらを読むのが趣味の人も、みんなみんな平等だと思う。

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