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自我の崩壊と「死」と「生」のバランスコントロール

もう そろそろ 11月になる。

一ヶ月が過ぎた。 あっという間の、長すぎる、この一ヶ月。

僕はまだ生きている。

ありえないような話や、何度も死にかけた。
数え切れない、嘘のような本当の笑い話のような笑えない そんな話ばかりがあった この一ヶ月も、終わる。

それでも 僕は 生きている。

きっと、このまま いつ死ぬかもしれないけど、自然死でも、病死でも、孤独死でも、不審死でもなく、僕は「自死(自殺)」なく、タイムリミット内で 生きるだろう。

その 今の答えの全ては 神のみぞ知るではあるけど、僕は そう想い巡らせている。 だから、今は死なない。 

生きる為には、「何の為に生きているの? 幸せになる為だよ」

その答えとしては、今のこの僕が、あの日に「死」にタッチしてから。

生きていて良かった。

まだまだ人生は わからない。 

この繰り返し、その試練や悪戯や啓示や運命みたいな運命の定め(円環の理)みたいな、業(業運)なのだろう。

ああ、僕は生きていて良かったと想える、死ぬとき、日常的に振り返る時、

僕は 「生きていて良かった」「あの時、死ななくて良かった」

「幸せになれた」「これで良かった」と、どんな道や世界や形になったとして、「僕の世界に、世界に、さようなら」と台詞を形に残して、僕の物語群像劇に終止符を打てるのだろうか。


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