長い したがき

「お前が今するべき事は、それか?」 
と僕の中の反論があったので、今僕がしている事はこれですという話です。

人は仕事で勉強したり、一日中それに必死に向き合っていると思います。
家の事、家事、家族の事で気が付けば一日が終わるのだと思います。
子供も大人も皆がそれぞれが自分に必要な事を必死でしていると思います。
僕は毎日、大した稼ぎも無く、体調をよくするために努力を続けられても無く、こんな僕は捨てられて当然のような生活をしているのでしょうかね。

僕は感情屋で人たらしらしいですが、大人になれば、経験する数が増えれば当然同じことで感動することが少なくなっていくものだと思います。

よく「大人になれば感情的にならず落ち着いてくる」という人はいますが、それは間違いだと思います。
いくつだろうが、感情的な人はいますし、癇癪的な人は変わらずいます。
そういう人はそういう人なので、大人になれば、という説明や理屈は間違っています。

あと「老化は感情から始まる」みたいに言う人がいますが、それも違うかなと僕は思っています。

確かに物事や感情に鈍感になったりすると思います。
ただ老化によって認知力が低下したり、マルチタスクみたいなことが出来ずに良くも悪くも一つの事だけに集中していくようになる事を、
「感情が薄くなる(弱くなる)」と表現するのも少し見ているところは僕とは違うかなと思います。

見ているところが違うは、意見が間違っているという訳ではないので否定では無いです。

・・

髪を切った。
二か月ぶりらしい。金が無かったから使いたくなかったからだ。

どうしても内臓が苦しい時(酷い時)はアムロジピンを飲めば今は身体が少し楽。昨日は炎天下の中、ひとりで仕事。

駐車場に車が突っ込んだらしい。
突然の連絡で現地に向かうと、想像の斜め上、車は逃げた後。
フェンスが完全に倒れて潰れていた。

ここまで壊れるのは完全なる事故だ。
この状況になるほどの事故をして逃げるのは、パニックになって逃げた可能性が高いと思う。防犯カメラも時間帯が読めないのであてにならない。

でも僕は犯人はすぐ見つかると思う。
車は修理するし、ガラス片が凄い。
窓ガラス、ライトのどれかは完全に壊れているだろうからそこで捕まる。

あるいはバンパー欠片から車種と年式が解ればそれはそれでいい。
証拠を残さない僕としては、証拠が残るような事は良くない事なので、ここまで安易な犯人はすぐに捕まると思う。最近二人捕まえたばかり。

僕もみんなこんな世の中で生きていくのって息苦しい。
一日中、何かに縛られて締め付けられるような、気持ち悪いストレス。

ストレスという言葉は安易で使いたくない。
気持ち悪い。まとわりつくような苛立ち。

・・

上手くいかない人が多い。
僕もそう。

上手くいかない理由を、どうして、と自分には非が無い、問題は無いと思い込むと、なかなか難しい。

これは物事の判断が間違っているから上手くいかないのだと思う。
間違っているから出来ない。
本人の思っている事と、相手の思っている事が違うのだろう。
見立てや検討を外しているのだと思う。

それかゴール(目的)が間違っているのかもしれない。
僕も最終的なゴールを決めて、それを軌道修正しながら進んでいる。
以外と本人が一番の理想としている、答えとしているゴールを変えていく事が大事なのだ。

子供の頃はゲームが欲しい、遊びたい、友達と、それが一番楽しいのかもしれない。でも、いつかそれにも飽きてくるし、もっと楽しい事はある。
何よりもっとするべき事が見えてくる。

気が付く。気が付く為には自分で考える。考えて見えてくることもあれば見えずに、何かの拍子に気が付く事もある。
散々失敗して痛い目を見て地獄を見てどん底まで落ちて、誰からも相手にされなくなって、その孤独や辛さみたいな感情にすら慣れて、もう、どうしようもなくなってから気が付く人もいるし気が付かない人もいる。

ゴールに向かって走りたいと言いながら、走っていく先はコンビニかスーパーで、今日の夕食の準備をまず買いに行く、みたいな事。

僕はそれは間違っていないし、人間はそういうもんだと思う。

自分がしたい事だけをして生活や社会の中で成り立つならそれでいい。
これは自分軸の話ではない。

家族がいれば家族の事。子供がいれば子供の事。親がいれば親の事。
仕事があれば仕事の事。

どうしても、それ以外の事、をしながら限られた時間の中で、どこにどれだけの時間やコストを割くのか、それが人によって違うだけだと思う。

だから、やりたいことがあるならやれよ、もっとやれよ、と言うのは、少し無責任なアドバイスだなとも思う。

・・

僕にとって兄貴や姉貴は、かっこよくて、きれいで、
大好きなお兄ちゃん、お姉ちゃんだ。

だからそれ以外の人は、僕の人生から消している。

・・

口は禍の元だから箇条書き

・認知の歪み とは 

物事に対しての思い込みが、自分の生活や体調を悪くする原因になっている事。状態。考え方が病的、あるいは異常や問題があることだと思う。

本人は気が付かないから問題になる。人に対しても心を読み過ぎている、あるいは間違った見方で認識、判断している事。

結果的に、相手に対して悪い感情が生まれてしまい、それが本人の中では一切変化する事も、別の解答や自分の間違いに気が付かないまま一生を終える事と思う。

だから同じような人間が一緒になるのは、そういう話だと思う。

きっと、価値観が合う者同士の子供は、同じ価値観や考え方を先天的にも後天的にも受け継ぐと思う。

なぜなら、
後天的な要因は、親の教育やしつけ、親が決めてお金を出して通う学校、家庭内の生活環境が20歳までの子供の人生、それが後天的な部分だからだ。

とはいえ、絶対はない。

蛙の子は蛙とも言うが、その逆に、
鳶が鷹を生むも同じように起きると思う。

だから運命は自分で切り開くしかないと言うのはそう言う事だと思う。
人間は皆そういうもの。
凡人とか平民とか言う気は無いけれど、自分の事を何かの生まれ変わりみたいに言う人も最近よく見かける。これも僕の周りの話だけどね。
みんな、人間、親、雄雌、生存繁殖行為、その先に生まれているだけだ。

運命とか語り出して、すぐに「巡り合わせ」とか、だから嫌い。

子供が親をみてどう成長するのかで親や家族(一族)と、どこまで違う人生や人間になるかは変わっていくのだと思う。
そうだ。
僕の周りでも、僕に共感や賛同を求める人は、自分の過去や不幸を語る底にある問題を親や家族という人が多い。
でも、それと同じような事をしている事に気が付いていない。

それだ!

問題から逃れない、解決させられない原因はそこが大きいと思う。

!!!!!!!!!

僕が合わせ鏡みたいに自分を当てはめる底に自分を置いてみて考える事。

人々は 群像している。
人それぞれ、またその時はその時の事情がある。

物事はタイミングであり、それらは、群像しながら常に物事は変わる。
諸行無常を忘れてはいけない。

進む人や物事が相手、だからタイミングを計ったとしても、それは自分の視点、それはただの自分の解釈と都合の独りよがりである事。

上手くいかない、運が悪い、それは独りよがりの考え方で相手(物事)を見ているから合わない(会えない)のだ。

・・
・・

僕は人に何かを紹介するのが苦手だ。

それと同時に、僕は何かと何かが協力なり影響し合う相互関係で、良い話が生まれる事(道筋)を考えたがる。

重たく(重苦しく)考えて見られてしまうけど、
僕は「何となく」が苦手だ。

僕が話の起点を作っている時は、真剣に、重すぎるくらいの熱量を考えている時が多い。時分でもその考え方や重く考え過ぎて自分で苦しくなっている時も多い。

・・

僕が人に対してこのような嫌悪やストレス負荷がかかるのは、後天的な経験から僕の中にある価値観や考え方が影響している。

人に何か相談されて、僕が協力したり、手助けや紹介をする事になる。

そこで相手が納得すれば、満足すればいいが、上手くいかなかった場合。
(本人が勝手に思い描いている結果や期待していたものでは無かった場合)

「お前に紹介された○○、全然ダメやん」
など、僕に問題があったから、と人の性や責任転換してくる。

最悪なのは、そこであった事、僕がいないところでその人がしたことで、その人が得た結果への不満や意見を、僕の人間としての評価や人間性に当てはめてくる奴が多かったのだと思う。

逆恨みされるのも嫌だが、勝手に責任追及されるのが気に入らないのだ。

僕が友達以外に友達を紹介しないのが一番の大きな強い理由だ。

僕はやっぱり、好きな人にしか好きな人を教えない。

そして相互補完できる関係性を願う。

・・

母は、自分が気に入らない事、自分が知らない事を認めず理解出来ない事に対して否定攻撃になる。

これは誰しも自分の非を認めない受け入れられない(認めてはいるが受け入れない、認めてはいるがその場では認めることは出来ない)事はあると思う。

ただ、そこで争いや問題を起こしてしまうのは本人に原因がある。
問題を起こして、それを良い悪いの話ではない、好みの問題だと言うのは僕は間違っていると想うし好きではない。

僕の周りで、そういう事が起きた時に問題をよく起こす人。
上手くいかないという人。
自分の理想や本意本心とは違う結末や答えにしかならない人。

その人たちを見て、僕も僕自身を必死で治して良くなろうとしている中で、認知の歪みみたいなもので苦しんでいる人が多い事に気が付いた今日。

その流れで久しぶりに「認知の歪み」で調べると、
改めて言葉の意味や解釈を進めると、なるほど、確かそうだった、と改めて気が付く事や、今になって今だからこそ理解や気が付けることもまだまだある。

・・
・・

この前、色々と考えて、やはり縁を切って正解だと言う人に
「認知の歪みが酷いですよ」
「それ、(やってる事)ダサいですよ」
と説明した事がある。
その時が僕はその人を完全に見限った瞬間だ。

この人はどこまで行っても話にならない
話が分かるレベルに今はいない
と判断したからだ。

だから本人との会話の中で、相手の求めている回答としてハッキリ告げた。

本人は、それを好みの問題や、僕の過去の言葉で言い返そうとしたけれど、僕は
「地元ってどういう所っすか」
と即答で返した。

僕の中の答えがそれだ。

この言葉は、人によって受け止め方が違うと思う。

その話しの直前に、人間は先天的、後天的な影響で価値観や人生が決まると話した後。そこで、お住まい(出身)はどちら?と聞いた形だ。

地元ってどんな所? 賑ってる店とか、観光的な話、ではない。

お里が知れる、親の顔が見てみたいというのは、
きっと色んな意味を含めた言葉になるのだと思った。

本人は一生、気が付く事は無いと思う。
やはり、そこからは本人の問題、人生だ。

人間は、一人では何も出来ない、変わる事は難しい。
古き悪しき文化の言葉かもしれない。
僕が昔に聞いて、今でも覚えている人の話がある。

「子供が学生から社会人になって、そこで完膚なきまでにそれまでの人生経験や人格を否定されて、自分とやらを完全に壊されて、そこから更に経験と自分で考えた答えを繰り返して大人としての人格が形成されていけば、その時に仕事も生活も一人前として他人から見られ始める。それもせずに自分のやり方とか自分らしさとか言うな」

僕はこの言葉を小学生の頃に聞いた。その後も、大学生の頃や、社会人になってからも何度か思い出していた。

その時は僕は自分に言われているような気がして嫌な気分になる。

けれど、それもそうかとやっと解かってきた。
それは、応援されるには、気にかけてもらう、協力してもらう、極端に言えば愛されるには、それだけ自己犠牲にも見えるかもしれない経験や地獄のような修羅場や問題を乗り越えた実績がいるのだ。それが無ければ信用が無いから、それでは誰も相手にしてくれない。

仕事も私生活でも、そういう意味だったのかもしれない。

ちなみに僕が人間としても嫌いなその人は、
僕からその言葉を受けてもまだ、堂々巡りの話を始めたので
認知の歪み、はほぼ間違い無いと思う。

でも、こうやって社会やコミュニティは形成されていく。
家族も、人間関係も同じ。
もし、その人が家族や何かのコミュニティを作れば、そこの価値観はその人の価値観が普通になるかもしれない。
そうすれば、今のままで言えば、認知の歪みが異常な状態のコミュニティが形成される。そこで生まれてくる人間や、価値観は当然、外界社会と上手く関係性や付き合いが出来る人間なのかと言われると、一概には言えない。

親や環境から、自分で道を決める。変える。修正もする。しながら歩く。

人間の問題や悩みって、何年も何千年も変わらない。
生命体として動物をして、そうやって社会を成り立たせているのだろうと思う。

相性や、それぞれの人生を賭けた大事なもの、優先順位の価値観が合う者同士がコミュニティや環境を、それぞれがそれぞれで作っているだけだと思う。

これは日本でも県単位でも街単位でも学校単位でもない。
家、家族の価値観や問題の話。

これを変える為には、20代で一人暮らしをして、色々失敗や怒号や罵声を浴びて、怒りや悲しみに振り回されて、半狂乱を繰り返しながら。

または、そういう事もそれほど無く生きて最後まで行く人もいる。

人それぞれ。それはその人が作った環境特性だ。

生活費、収入はこれくらい欲しい。
遊びや好きな事はこれくらい。
自分の時間や自由な時間、家族や他人との時間はこれくらい。
周りの人は、職場や生活環境はこういうのが自分には合う。

だからリスクに対する話もここに入る。
定時の仕事で、給料制で、年休はこれだけ欲しい。
そう思えば自営業は出来ない、とはいえ、お金や給料は多く欲しい。けど残業もしたくないし休みが欲しい。
その希望条件を満たす事は普通では不可能に近い。

人は「普通」に拘る。

自分は普通でありながら、普通という安心と安定の身分を担保しながら、自分は普通ではない、特別な存在でありたい、なりたいと思っている。

それが人間の生き辛さなのかもしれないと思う。

・・

僕は価値観は一生変わらずに生きていくとは思っていない。

当たり前のように聞こえるかもしれないが、当たり前ではない。
度合いと言いたいけれど、かなり大きな役割や影響を与える。

僕の知り合いに、アル中(統失)のパチンカスがいるけど、その人は一生今の生活のままで大きくは変われない。変われないのは、変わらない人間だからだ。その人は、そういう人生を生きて死んでいくだけだ。

僕らもそういう人間だった。

いつまでも、いくつになっても、10代20代が言うような盛り上がるようなレベルの会話を一生して楽しく生きていくのだからそれでいい。

独身貴族やお一人様を謳歌している人も、いつか、ある時にㇷと寂しくなったり悲しく、空しくなったりする時もある。

友達とも会えなくなる。だんだん減っていく。

一日の中の会話も自然と減っていく。

口数も減るかもしれない。感情も変わってくる。肉体が変わっていく。

その中で、その人は一生道を変えることは出来ない。
なぜなら、例えばそこからサラリーマンや一般的な仕事に就く事は無い。
でも、それは自分の人生だからそれで行くしかないのだ。

そこに家族や、友達、仕事仲間と言うと疑問符もつくが、自分の人生や価値観を考えて会話をしてくれる人がいれば変わるかもしれない。
それは本を読んだり、対人だけで、学び変わる話では無いと思うけど、やはり知識だけではなく実践をしなければ何事も実行したとは言えない。


自己啓発やビジネス書を読んで経営者として金持ちに成れたり幸せになれるなら、2000年間の間で人間は多くの問題や不幸の連鎖を解決しているはずなのに、それが解らないから受け身や脳死状態で物事を見聞きしているから変わらないのだと思う

けど、変わらない事が悪でも無ければ、変わらないから幸せになれない訳では一切ない。その人の意見や本心がそれを知っていればいい。理解出来なくてもいい、知っていれば、もしかしたら、いつか自分がそうだった、自分の姿や現実に一瞬でも気が付く日が来るのかも知れない。

辛いときは暗中、渦中の当事者は地獄の中にいる。
一瞬でもそこから息継ぎのように顔が出てきたとき

誰もそこには人もいない、周りに人はいても。
調子のいい心地いい言葉は、社交辞令やノリのいい言葉は、楽しい自分に都合のいい言葉や聞き心地や受けのいい無責任な人たちはいっぱいいても。

自分の問題点や辛い事、その人の人生について一緒に考えたり、それは大変な苦労、労力、時間もお金も気力も割いてくれる人がいればいいね。

誰からも愛されないと、誰からも、声もかからない。
誰からも、そこまで、愛されていないかもしれない。
応援されているなら、もっと誰か親身になって受け答えしてやれよと思う。
でも、
親身になっている人間が、同族や同レベルだと何も変わらないんだよね。

・・

今日も 介護するのは 本当に イライラする。
本当に やってみたら わかる。
しない為に介護施設がある、そのために働いているって意見が正しい。

この我が儘も、自分の悪い部分も分かって、今からどうするかって話をしている。僕は自分の人生を今考えている。

「介護してます だから 」
を言い訳にしてない。

それも自分勝手な言い訳や都合言葉ならべてるのと同じと思う。

実際に、
「じゃあお前は今すぐ将来の事、何をしてるんだ」
って言われて、返せる言葉は自分の事だけだし。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?