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「父と亡くなった動物達との思い出。ここは私の居場所じゃなかった」

今、参加している【劇場型ライティング講座】へ提出した課題です。
チョー長文です!

タイトル
「父と亡くなった動物達との思い出。ここは私の居場所じゃなかった」

ある冬の日。
私が中学生位の頃だと思う。
!!!!「何これーー!」
離れにある物置で、偶然見つけてビックリ仰天し心の中で叫んだ言葉である。

何かの用事があって、物置に行ったんだと思う。
たまたま口の開いた肥料袋が目についた。
じゃがいもや玉ねぎが入ってるだろうと思って覗いたら、なんと大量の雀!
衝撃的でした!
袋いっぱいにかわいい雀の死骸は入っていました。
もうねー、すぐに父がやったんだってわかりましたよ。

物置は小さい半紙サイズの窓が沢山高い位置にあり、その一部が無くなっていました。
そこからたくさんの雀が遊びに来ていたのですが、物置の中が糞で汚され、お米も被害にあったみたいで、やむなく米と一緒に薬を撒いて殺したと言っていました。
袋の中の雀たち。かわいそうに。
窓をふさげばよいだけなのに。

家はもともと農家なので当たり前ですがとてもとても広い土地を持っていました。
家族が住む母屋の他、物置が大中小3つありました。
都会の人にはめずらしいかもしれませんが、それは当たり前の風景でした。
一番大きな物置は今も健在ですが、残り二つの木造物置は7年ほど前に解体され、更地になっています。

実は私は農業を仕事にしたいと思ったことは一度もありません。
むしろ、自分には向いていない仕事だと思っています。
両親は日の出と共に起きて仕事をし、天候の心配もいつもしていました。
重たいものを持つ事も多いし、体力が無いと出来ないし、自分で判断したり決断したりして色々やってくのって、本当に大変なので私にはムリだと思っていました。

自然は大好きです。
でも土いじりとか、本当に興味を持てませんでした。
両親も「大変な仕事だ」とか、「こわい、こわい」(北海道弁)といつも言っていたから、その影響を真に受けていたのかもしれません。

そして、もう一つ向いていないと思った理由はこの仕事は動物との戦いだと思ってたからです。我が家も害獣、害鳥に悩まされていました。
父は人に対してとてもやさしい人だと思いますが、被害を及ぼす動物に対してはいつも厳しくて、母も同じ意見でした。

以下は、雀以外の印象に残る動物の死にまつわる思い出です。

★ある年の夏
我が家にカラスが提灯の様に吊るされていました。
吊るされた黒い死骸はチョー怖くて近寄りたくなかった。
でも、畑に行く時の通り道に吊り下げているので、その側を通らなきゃいけない。
何かの罰ゲーム???
当時のカラスは本当に賢くて、ハウスの中に入ってメロンやスイカを食い荒らしていた。大事な作物を食い荒らされたら父が怒って当然だ。
父がいうには、カラスは賢いから仲間の死骸を見ると自分も害を加えられたら大変だと思って、来なくなるらしい。
それは本当かどうかはわからないけど。
私ら子供たちが怖くて畑へ行けなくなるのは確かだった。

★ある年の秋
父の仕事の手伝いで「豆落とし」という作業を秋に家族総出で行っていた記憶がある。
乾燥した枝付き大豆を丸い大きな山にするんだけど、それがさらに乾燥したら、機械で豆を落として収穫するのだ。
その大豆の大きな山を崩す時、下から太った大きなネズミが出てくる事がある。
父はそのネズミをいとも簡単に掴み、地面に叩きつける。
ネズミは「チュ!!!」と短い声をだして死んでしまった。
かわいそう!私は声を出していつも言っていた。
でも、ネズミは農被害の悪者なので仕方がない事なのだと諦めていた。

★ある年の初夏。
母が大豆の畑にひばりが巣を作ってると教えてくれた。
その頃、毎年ではないが時々ひばりが巣を作って子育てをする事があった。
家族で見に行き、小さなひばりを掌に乗せ、その可愛らしさに喜んだ。
人間の匂いがついたら子育てを放棄されるかもしれないから、という理由でその後は見に行かなかった。
ひばりは害のない動物に入るのだろう。
巣立ちまで家族で暖かく見守った。

★ある年の夏
カラスに虐められてケガをしたトンビを父が拾ってきた。
玄関に持ってきたから驚きだ!!
いつも見るカラスの倍の大きさがあったと思う。ケガして弱って抵抗力がないのか、元々優しい気性なのか暴れたりせず、抱っこされている姿は超かわいかった!
鳥好きの飼い猫も見に来たが、あまりのビックなお客様に驚いて逃げていった。
父はトンビの為に超大きな鳥かご?鳥ハウス?を金網と木で作った。
縦横高さが2メートルづつあったような気がする。
トンビの為に父が川で捕まえてきた魚を与えていた。
1か月くらいは飼育したのでしょうか。
ある時トンビはいなくなっていました。
父が言うには元気になったから自然に返した。と言っていました。
その後、私は空を飛んでいるトンビを見る度にうちに来た子かもと思って嬉しい気持ちになっていました。

★ある年の夏
当時飼っていたウサギのウサコが脱走し、何日も捕まえる事が出来ずにいました。
広い敷地内で自由に生きているのは、時々姿を見せるのでわかっていた。
でも、すばしっこくて、捕まえるのは諦めていました。
そんなある日。
その脱走したウサコが変わり果てた姿で見つかった。
首から上が無い状態の死骸で見つかったのだ。
父はキツネにやられたとは思えないと言う。私もそう思った。
っていうか、その死骸を発見したとわざわざ報告してくれたので、見に行っちゃったんですよね。
今も本当に謎なんですが、出血が全然なくて、首から下が美しい状態なんですよ。首は噛み切られた様に見えなかったし。
そして頭が無いのが最大のミステリー。
その後、父はウサギの胴体で罠をしかけ、次の日キツネが捕獲されました。
野生動物を捕獲するのは違法らしく、キツネは自治体に引き渡されました。

★ある年の春
物置に用事があって行ったら、ベージュの猫が農機具の下のおがくずに埋もれて冷たく亡くなっていました。
おなかがぺちゃんこだったのを記憶しています。
おそらく、たまたま扉が空いたときに入り、閉められて出られなくなったのだろうと思います。
かわいそうに。
父にすぐ報告し、土に埋めてもらいました。

★ある年
飼い犬が老衰したと父が教えてくれました。
14才位、がんばって生きたみたいです。
その犬は、3女がもらってきて実家の番犬になりました。
白くてスマート。雑種のとても勇敢な番犬でしたが、小顔な為首輪がすぐ抜けてしまい、自転車通学の学生を追いかけるというヤバイ事も多々あったそうです。
超怖がりで、雷がなった次の日に脱走している事が多かったので、大雨の日や雷注意報が出たら、物置に移動させられていました。

人をケガさせたら飼い主の責任というのは両親もよくわかっており、抜けて脱走する度に首輪は追加され、最後は4つも首輪をつけられていました。
胴輪をつけるという方法を両親は知らなかったみたいです。まるで首長族!!

そんな飼い犬が弱って亡くなる少し前、ぼーっとしている事が多かったみたいでカラスやキツネにご飯を食べられちゃうようになりました。
あれ??犬が2匹いる?って思ったら、キツネと一緒に並んでいて、ご飯も食べられていたそうです。
そして、カラスにつつかれて虐められるようになったそうです。
父はその時、例のカラスの提灯を作ったり、追い払ったりして、飼い犬を守ってあげていました。

ある年の夏(7年位前??)
次のステージへ上がる予感がしました。
時空力の前、さとゆみ先生が「魔法の言葉養成講座」という講座を開催していた。
その開催地が実家の隣町の下川町だった。
札幌で開催していたら、おそらく行っていなかった思う。
帰省と講座受講の二つの願いが叶えられて一石二鳥の嬉しさで、ピンと来てお申し込みをした。
講座の初日、帰省した時。
偶然すぎて驚いたのが、物置の二つが解体される前日だった。
父の知り合いがたくさん来て、解体を手伝ってくれるらしい。
雀と猫と犬の思い出の残る物置。
それ以外にもここで沢山遊んだので思い出がいっぱいある。
無くなるのがとても寂しくて涙が出そうになった。
残念だけど、老朽化しているのと、私達子供たちに残さない為に父が解体を決意したんだと思います。

3泊の講座の後、又実家へ寄った。
2つの物置は無くなって更地になっていた。

今は土地も手放し、母屋と大きな一つの物置、家庭菜園用の畑が残っています。
実家にいた時は今よりもずっと動植物との関りが多かった。
それが当たり前だった。

両親の事は好きな所も多いが、害獣、害鳥を平気で殺してしまう所が嫌いだった。
いつも殺された動物達を可哀そうと思っていたので、これが普通な世界は私の居場所ではないと思っていた。
農業を営むなら駆除は当たり前の事だと思う。生活を守るための当然の事だと今はわかる。
でも学生の私はそれを理解できないので、見ていて心苦しかったのです。
もともとの価値観が違ったんだと思う。

なので、高校3年の進路を決める時、実家を出ると決めていた。
ここは私の居場所では無いと思っていたので。
そして、両親は不要な物は何でも捨てる人たちだ。私が実家に残した思い出の品ももう無い。
私もひばりと一緒で巣立っていったのだと思う。

私は土いじりに魅力を感じないが、自然の中に溶け込みたいと思う事が時々ある。
だから、今の住まいも山に近くて自然が多い所を魅力的に感じて選んだ。
更に小鳥や雀の声が大好きで、歩いている時、チュンチュンと可愛い声が聞こえてくると嬉しい気持ちになる。
もう、害獣も害鳥も関係の無い世界で私は生きている。

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