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心のこもった言葉には人を感動させるパワーがあるって話。
当たり前みたいなことをいうけども「心のこもった言葉は人を感動させる」んですよね。
さっき、道で私の前を歩いていた人が、スマホ見ながら歩いてて、すれ違いざまにおっさんとぶつかりそうになって。おっさんはその人を振り返りながら悪態をついたんだけど、それが私がすれ違いざまに放たれたものだから耳に入って。私に向かって放たれた言葉ではないが、私がちょうど耳にするタイミングになっちゃったわけだね。
で、この言葉、心がこもっていたのだろう、感動したね。感動というのは、感情が動く、ということで、「うわー」となった。おっさんの言葉で私は「感動」したのだ。
感動って、ポジティブな意味合いで使われることが多いけど、本来、感情が動くっていうのが、感動だ。
心のこもった言葉は人を感動させる。感情を動かす。パワーが有る。もっとも、アドラー的にいうなら、そのおっさんが私を感動させたわけではなくて、その言葉で私が自分の心を動かすという、私の中に備わる自動プログラムが起動したってことになるということだし、それは自身に脆弱性があるということなんだよなっていう話は前も書いた通りで。その意味では、私、そこは脆弱です、ということの表明ではあるんだけど。人が「そこ痛いんですよ」というところをわざわざ攻めるか、人として、って話で。
いずれにせよ、心がこもった言葉というのはパワーがあり、パワーがあるということは、権力や暴力として作用するものだってことだ。で、権力や暴力には加害性が備わっているわけで。
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