「人の気持ちを分かれ」と言う人が分かって欲しいのは、「自分は人の気持ちをわかる人間だ」という信念なのではないか説。
「人の気持ちを分かれ」と言う人っているじゃないですか。で、僕なんかは真面目なので、小さいときは「ああ、大人っていうのは人の気持ちがわかるものなんだな」と思っていたんですね。テレパシーみたいに。しかし、おとなになってもイマイチ人の気持ちをわかることに関しては確信がもてないなあと。僕もおっさんになってくると、もう「人の気持ちを分かれ」っていう言葉が、単に「俺の思う通りに振る舞え」という意味でしかないということはわかってきました。
しかし、一方で「人の気持ちを分かれ」っていう言葉を使う人に、「俺の思う通りに振る舞え」という意味で言っているんですよね?と聞くと、多分、「違う」という答えが帰ってくると思うんですよね。つまり、「俺の思う通りに振る舞え」という意味で言っている、という推測は「人の気持ちを分かってない」んです。
そもそも、「人の気持ちを分かれ」って上から言う態度って、もうその時点で相手に不快感を与えていますから、「いやお前今まさに俺の気持ちわかってないじゃん、それとも不快感を与えることをわかってやってんの?」という話になるわけですね。ところが、それを言えば、確実に「人の気持ちを分かれ」という人は気分を害し「お前は俺の気持ちをわかっていない」となるはずなんです。つまり、その人の世界観と齟齬を起こすんですね。
できれば「人の気持ちを分かれ」っていう人の気持も、わかってあげたいじゃないですか。
で、じゃあ「人の気持ちを分かれ」っていう言葉を使う人は、一体どういう気持で言っているのか。
ここで仮説です。「人の気持ちを分かれ」っていう人は「自分は、人の気持ちをわかっている」と本気で信じているんじゃないか、というものです。言い換えれば、「自分は人の気持ちをわかる人間だ」という信念の中に生きているわけです。
もしそうだとすると、彼ら彼女らがわかってほしいのは、実はその「自分は、人の気持ちをわかる人だ、という信念」なんじゃないかなってことなんです。
「人の気持ちを分かれ」と言う人は、「自分は人の気持ちをわかる人間だ」という信念をわかってほしい。「私は他の人の気持ちがわかる、という世界観を守りたい、という気持ちをわかって欲しい」というわけですね。逆に言えば、自分は人の気持ちがわからないかもしれない、と想像しちゃうと、信念がゆらぐわけです。自分を支える信念が揺らぐわけですから、これはもうすごい怖いと思うんですよね。また、人の気持ちがわからないやつだというスティグマが貼られると差別されるにちがいない、と思っている、そのような差別を恐れている、ってことなんじゃないか。
とすると、「人の気持ちを分かれ」という人がほしいのは、「その人が、”人の気持ちがわかる人のフリ”ができるような、わー、あなたって僕の気持ちがわかってくれるのね!という周りのリアクション」なんじゃないかと。そういうリアクションを受け取ることで、自分は人の気持ちがわからないんじゃないか、という想像がもたらす恐怖を回避し、また、人の気持ちがわからないやつというスティグマを回避できる。「あなたって私の気持ちがなんでもわかるのね、あなたは私の理解者だわ」と言われたいわけです。本当に理解されてなくてもいいんです。そう言われたい、という気持ちを、わかってほしい、それが「人の気持ちを分かれ」という人が望むことなんじゃないかと思ったよ、という話です。オチはないです。
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