「好きなこと」という言葉より、「それをやっていると回復すること」の方がハマる気がするって話。

 よく、「あなたの好きなことをやりましょう」っていうアドバイスを目にします。それはそのとおりだし、おそらくはバチッとハマる人もいるんだとおもうんですね。しかし、僕はどうもそのアドバイスにハマれなくて。

 というのも、「好きなことをしているのにどんどん疲れていく」みたいなことだってあると思うんですよね。日々忙しい仕事や家事をこなして、やっとの思いでひねり出した時間でなんとか好きなことをする。でも、タダでさえ疲れているのに、そこにさらに好きなこととはいえエネルギーを使うことを上乗せする。ここにおいては「好きなことしましょう」という言葉は、「疲れていても好きなことをせねばならない」というプレッシャーになっていくわけですよ。そうなるともう「これ、本当に好きなことなのかな?」みたいな迷いが生じていって、逆にもう何が好きなことなのかわからなくなっていく、さらには「好きなことをできない自分は出来損ないだ」というような自虐に至ってしまうようなこともあると思うんですね。

 でですね、僕は「好きなことをしましょう」という言葉より、「それをやっていると回復することをしましょう」の方がどうもハマる気がしていて。

 というのもね、もう好きなことしかしないでいいですと、それだけやっていれば生きていけます、みたいな人なら、好きなことをやりましょう、でいいと思うんですよ。しかし残念ながら人間、この世界に適応して生きていこうとすれば否応なく、やりたくないこともしないといけない場面が大なり小なり出てくるんすよね。当然ながらやりたくないことをすると、エネルギーを消耗します。疲れます。しかし翻れば、そのエネルギーが残る限りは、やりたくないこともできるわけです。それができる限りは、「やりたくないけど、やらないと生き残れないことができる」ってことで、つまり、生き残れるわけです。生きていけるってことです。

 とすると、むしろ「生存」のために重要なのは、「好きなこと」より「それをやっていると回復すること」なんじゃないかなあと思ったんすよね。やりたくないことをやれるエネルギーが回復する、何か。

 で、それはなんだっていうと、ここからが人によってバリエーションがあるところで。例えば「人の面倒をみるのが好き」みたいな話あるじゃないですか。そこで「好き」とは一体何かと。「人の面倒を見るためなら、バリバリエネルギーが回復して、やりたくないこともできるようになる」なら、なるほどなあと、僕の理解はハマるんすね。

 でも、そうじゃない人もいると思うんすよね。「面倒をみるのは好きだけど、それは好きか嫌いかでいえば好きという程度の話で、それをやっていれば、あるいはやるためなら、多少嫌なことでもできるようになる、というわけではない」っていう人も、「人の面倒を見るのが好き」って言えちゃうんです。言葉がね、大雑把なんです。繊細なグラデーションを描ききれない程度にデジタルなんですよ。

 僕の理解では、この「好きか嫌いかでいえば好き」みたいなものって、ぶっちゃけ大したことないっていうか、まあやらないでもいいけどたまにはやってもいいかな、みたいなことなら、別に好きにしたらいいんですが、それはまあ、なんつうんすかね、わざわざアドバイスとして言うような人生訓ではないっすね。わざわざアドバイスするに足るような、いわゆる「人生の判断基準」にするにはいささかパワーが弱いと思うんすよ。

 人はやりたいことだけやって生きていけるわけではない。とすると、やりたくないことに耐えるエネルギーを何で回復するか。それをやっていると、あるいはそれをやるためだと思えば、苦手なことにも耐えられる、そういうエネルギーが回復する何か、っていうのが人生をサバイバルする上で大事なんだと僕は思うんすね。

 例えば「華やかなステージで歌うのが好き」って言う人がいるとして。「でも私は泥臭い営業は華やかじゃないんでやりたくないです」みたいなことあるとしましょうよ。その場合の「華やかなステージで歌うのが好き」って、まあ人生の判断基準にするには、弱いってことです。だったら別のことを支えにしたほうがいいっすね、ということになります。逆にそこで「いや、華やかなステージに立つことで得られるエネルギーは、泥臭い営業で消耗する分を私は上回るんすよ」っていう人はバッチリだよなと。

 例えば僕の場合、「一人でじっと考える」みたいなことが、どうもここでいうエネルギーの回復に要るみたいなんすよね。その時間があれば少々苦手なことも頑張れるし、その時間を作るためなら、頑張れる、みたいな感じはあるんすね。だからこのnoteとか、一人静かに自分の思考に向かい合って書いているんですけど、これが良いんですよ。エネルギー回復している感じがします。逆にこういう時間が取れないと、だんだん消耗しちゃって、普段なら耐えられるような苦手なことから逃げたくなるというか、そんな感じがするんすね。

 もっとも、僕の場合は一人で考える時間がエネルギーの回復に不可欠ですけど、逆に「一人でいるのが嫌だ」っていう人もいると思うんすよ。一人でじっとしているとか考え事しているとどんどん消耗しちゃうけど、反対に他人と一緒に何かをしているとメキメキエネルギーが回復していく人っていうのもいるはずで。

 「一人で2時間くらいかけて考えをnoteにまとめなさい」ってなって「うわー、まじだりー」と消耗しちゃう人もいるってことっすね。僕なんかは「え?いいんすか、そんなんで」ってなります。だから、原稿執筆のお仕事なんかいただくと、本当にね、良いです。イメージとしては、「お金もらって温泉旅行に行く」ようなイメージっすかね。たのしー、みたいな。

 でも逆にお仕事で、「今週中に100件、人に会って営業して成約してきなさい」は、だいぶ気持ちにクるっすね。マジかよやべえ…ってなります。でもそれが、自分にとって「お金もらって温泉旅行に行く」に当たる、っていう人もいるはずなんですよ。

 たぶん、そこがいわゆる「才能の差」でね。どっちが上か下か、という差ではなくて、才能の性質が違うってことで。なんでこれを才能と呼ぶかっていうと、「何がエネルギー源となるか」っていうのは、インプットを首尾よくエネルギーに替える消化酵素があるかないか、みたいなことだからなんですね。例えば大量のアルコールを飲んでもスルッと分解できる消化酵素を持っている人もいれば、全然持っていなくて、一滴でも気持ち悪くなる人もいて。まあ体質みたいなもんすね。例えばゴリラって、空気からアミノ酸を合成できるので、息しているだけでムキムキになるらしいっすね。みなさん、「マジかよゴリラすげー!」と思うかも知れないですけど、僕からすると「一人の時間なしでみんなと一緒にいればエネルギー回復します」っていう人は同じように見えるんすよ、ってことです。

 もちろん、後天的に身につくものもあると思うんですけど、ある程度は意識的に操作できないものっぽいので、自分が何ならエネルギーに替えられるのか、みたいに、自分の持っている消化酵素の性質に対する理解みたいなものは大事っすね。子供や家族のためなら頑張れる、とか、金のためなら頑張れる、とかいったように。

 例えば僕だってこう見えてまちづくりの仕事をしているんで、まあいうたら人と会う仕事ですし、人と会うことでエネルギーを回復する場合もあるんすね。これはもうね、訓練の賜物だと思いますね。しかし、体調悪いのか、疲れているのかなんなのかわからないですけど、いつもなら「食える」はずの出来事が「食えない」こともあります。胃もたれするというか、受け付けないというか。普段なら飲めるお酒が寝不足のために二日酔いになりました、みたいなことってありますよね。それと同じで。そういう「体調によっては消化不良に陥るもの」っていうのもあるっすよね。それはやっぱ後天的に身に着けた消化能力だよなって感じがします。

 その点、例えば白湯とか、まあ胃もたれしないわけですよ、いつ飲んでも。そういうのが鉄板というか、体質というもんなわけですね。自分にとっての白湯ってなんだろうな、って話なんです。

 で、よく「趣味を仕事にしてはいけない」っていいますよね。これは、ここまでの話を踏まえると、けっこう含意のある言葉だなあと。

 例えば、「他人に対する義務、負債が発生すること」がエネルギーになる人もいるでしょうけど、大抵の人にとって、他人に対する義務、負債が発生することって、やりたくないわけですよ。だから、自分のエネルギー回復行為を仕事にしてしまう、つまり他人に対する納品義務のあることにしてしまうと危ないというような話が成り立つんすね。逆に言えば、「他人に対する義務があるにも関わらず、やっているとメキメキ回復できるという何か」がある人は強いっすよね。

 ということで、僕は今日はじっくりと自分の考えを整理する時間が取れたので、元気になれそうだなあという話でした。

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