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市民参加に込められた願いの一つは、「連帯能力」という希少資源を有さない個人にも政治参加の機会を再配分しようとしたこと

 僕がお仕事で関わっている「ソフトのまちづくり」っていうのは、人類の協力行動の高度な一種であると説明できて。つまり、バラバラだったり、裏切りが横行していると成立しない、連帯の賜物なんですね。

 連帯は大きな力を生みます。例えば、一人ひとりでは大した力を持たない普通の人々でも、沢山集まってデモ行進をしたり、不買運動をしたりすると、政治家や企業といった有力者も無視できなくなるわけです。これが連帯の力です。お魚が集まって巨大な生き物のような姿をとって、捕食者に対して威嚇するっていうのがあるんですけど、それと同じですね。ベイトボールっていうらしいです。あるいは海つながりで社会学ぽく言うならリヴァイアサンか。

 しかしこの連帯能力、誰にでも備わっているわけではありません。おそらく、置かれる環境によって強弱があります。高い連帯能力のある人は優れた協力行動を可能にし、大きな力を手に入れ、ますます連帯がしやすくなっていく。一方で、連帯能力の少ない人は、協力行動が困難になり、ますます人が離れて連帯しにくくなっていく。連帯能力の格差っていうものがあると考えられるんですね。

 以前こういう話を書きましたが、これと同じで。

 さて、ソフトなまちづくりをめぐる行政政策の分野では、早いところでは1970年代から、遅くとも90年代ごろには、市民参加がトレンドになってきました。で、行政制作における、この市民参加というものに込められた願いの一つは、この「連帯能力」という希少資源を有さない個人にも政治参加の機会を再配分しようとしたことであったように思うんですね。だって、連帯能力が高い人は、そもそも連帯して大きな力を持って政治参加できちゃうわけですから、その結果、連帯能力が低い人が公的資源の分配において不利な立場に置かれるのだとすると、エンパワメントは必要だろうということになります。

 ただ、そうすると、市民参加の現場でしばしば起こりがちであるといわれる問題、たとえば「テーマに無知な公募委員が集まってしまう」「趣味的で閉鎖的でアマチュア的な活動家が増えてしまう」みたいな現象も、制度上のバグではなく「仕様」、つまり、必然的帰結であったはずなんだよなと。そりゃそうだろ、という。

 しかし、しばしばこの現象はバグとして捉えられてきました。ということは、そもそも目指すゴールの要件定義に問題があったか、ゴールイメージの共有と合意が実は調達できていなかったか、もしくはそのために必要なプロトコルが不足していたか、ってことになります。

 で、仮にゴールイメージの合意不足と、プロトコルの不足があったとして、それってなんだったかっていうと、この理屈で言うと端的には「人権」の観念と「社会教育」の不足だってことになります。

 つまり、わかりやすく言うと、参加の機会の配分が大事だ、というものの、市民に対して単に「出番、舞台だけ作ってた」んじゃなかったかと。演劇に例えるなら、演者が演じるには、台本もいるし、稽古もいる。力不足というなら、役者のトレーニングが不足していたってことで。これを市民社会論に当てはめるなら、「市民」という役の演技をする能力であり、それは一般にシティズンシップといったりする。日本でも2000年代に学校教育でトレンドになっていったといわれています。

 しかし、「お受験」に典型的なように、そもそも課程教育の本質が「訓練」ではなく「伸び代のある個体とそうでない個体の選別、ふるい落とし」にあったのだとすると、それもまたむべなるかなで。

 学習のプロセスとは、原理的に「まねぶ」であって、「できてる人を真似てぬすむ」ことにある。とすると、社会教育の不全とは端的に「市民、を、できてる人がいない」ってことだったのかもしれない。

 で、その「崇高な理念」を実現するプログラムの実装に時間がかかっている今も、実社会は「連帯能力」のある人々による「実効支配」が行われているわけで。

 いわゆる「コミュ力」とか「空気を読む能力」なんていう、社会人的な能力ってのは、いずれもこの連帯能力の一種で。だから、社会人と市民とは要求される能力が異なるんだ。

 就職活動なんかで、部活などの集団運営能力のアピールが加点につながるのは、つまるところこの連帯能力の確認ができるからで。

 連帯能力の価値は、個別具体的なスキルを大きく上回る。スキルフルだけど人とうまくやれない人より、スキルはないけど人とうまくやれる人の方が有利になる。だからスキルに重きを置く若者からすれば老害と見えるような「なんであんなスキルレスな奴が重役なの」みたいな話が起こるんじゃないか。

 つまり、連帯能力保有者による社会資源の独占と、不能力者の排除が起きているわけで、そうじゃねえだろ、というのが、市民社会の理想だったと乱暴に要約できて。

 もちろん、連帯能力が不要だというわけではないですわな。大事だと思います。しかしだからといって不能力者を排除していいわけではないんですよね。白人社会では黒人は肌の色を理由に不利な地位に置かれがちですけど、それっておかしいですよね、という話に近い。つまり連帯能力非保有者に対する人権の保護、アファーマティブアクションとしての面があるわけで。

 で、じゃあその連帯能力の非保有者をインクルージョンしましょうねーというときに、その在り方をどうデザインするのかって話になります。で、これって障害者のインクルージョンと同じ話が繰り返されて、よく言われるように医学モデルと社会モデルってに大別できます。医学モデルは障害を個人の病気と捉える一方、社会モデルは社会構造の問題だと捉えます。連帯能力を社会教育でどうにかする路線って、もしかしたら前者に分類されるかもしれないなあと。

 じゃあ後者の路線で行く場合はどうか。連帯能力の不足が社会構造の問題だというのは、つまり連帯能力の凸凹を補う公共財が不足しているってことになります。例えば障害者が外出困難なのは個人の問題ではなく、身障者用トイレの数が不足しているからだ、みたいな考え方ですね。

 なんていうか、連帯という「原始的な能力」に依存する程度に、僕らの社会はまだ「伸び代がある」のかもしれないなあと。

 ほら、あれですよ、攻殻機動隊の最初の名文句。「企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても国家や民族が消えてなくなる程情報化されていない近未来」ってやつですよ。「まだそんなものに頼ってんの?」というイケダハヤト的な煽りよね、あれは。

 ところで、じゃあ市民の能力ってなんだっていうと、これ、理念的な話で、思うに「法に従う」能力なんですよね。もうちょっと付け加えると、明文法。で、なぜ僕らの社会がまだ市民社会にならないかっていうと、法の支配の不徹底があるからだとこれまた乱暴に要約できて。法の支配より、空気や世間の支配のほうが優位にある。言い換えれば、それらを超えて人々に法を守らせる公共財が足りないってことになります。

 ただ、じゃあその公共財を徹底して補充するとどうなんのっていうと、PSYCHO-PASSのシヴュラシステムになるんすよね。監視カメラと自動心理診断システム。

 だから、シビュラの支配下で法の支配を徹底する常守朱は、典型的な「市民」なんですよね。面白いことに、なので常守朱のあり方は、「社会人」である僕らからすれば、ちょっと異常な、それこそサイコパスに見えてしまうかもしれない。だから2のラストではシヴュラにスカウトされてさえいたし。

 話を戻して、連帯能力をデフォルトと捉えるというのは、連帯能力者にとっても不幸なことで、というのも、彼らの能力を不当に安く扱っているからで。デフォルトじゃねえよ、希少能力だよ、と。私なんかは思うけど。フォルト扱いされてるから、みんな騙し騙し、あたかも連帯能力ありますよー、みたいな顔してるけど、そうでもねーよな。実際。だから、連帯能力者を大切に扱うという意味でも、連帯能力がなくてもいーじゃん、といえる社会を作ってやる方がええやろとは個人的に思うんですよね。なんか、そんなことを、ソフトなまちづくりの市民参加政策に関わっていると、思うんですよね。

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