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浜じっちとハーモニカ

昨日、夢の中に父方の祖父が出てきた。

祖父は、いつもどおり、優しい顏で微笑んでいた。
夢の中で、私は「まだまだ元気に生きてね〜」と叫んだ。

…ところで、目が覚めた。私は、夢の中で祖父に会えてしあわせな気持ちだった。

祖父のことが、大好きだ。

でも、なんであんな風に叫んだんだろう。

しかも、まだまだ元気に生きて、なんて。
と思ったが、まぁ、所詮夢だ。
祖父は、8年も前に亡くなっている。


祖父は、生前孫たちの前では自分のことを「浜じっち」と呼んでいた。
浜に住んでいるおじいちゃんだから、「浜じっち」。
お年玉の袋にも「浜じっちより」と書いてあった。
私はなんとなく気恥ずかしくて、おじいちゃんと呼んでいたけれど、「浜じっち」は祖父にとても似合っていた。

祖父は、漁師だった。
海の男に相応しい逞しさと、海のように広い心の持ち主だった。

私たちが、遊びに行く時には、テーブルの上にのりきらないほどの食べ物を用意して待っていてくれた。コリコリのあわび、あまい生うに、クジラのお刺身、とれたてを茹でたぷりぷりのタコ、ふっくら煮付けたあなご、こうなごの佃煮、シャコエビ、エビチリ、天ぷら、茶碗蒸し…。食べきれないくらいのご馳走だ。

「たくさん食え。たくさん食べないと浜じっちみたいなお腹になれないぞ」と言っていた。

どんなに食べたって、祖父のようなお腹にはきっとなれない。
でも、祖父の家のごはんは、とても美味しくて、祖父がそんな私のことを優しく見てくれているのも嬉しくて、私はたくさんたくさん食べた。
帰るときには、いつもたくさんのお土産を持たせてくれた。

祖父は、サンタクロースに似ていた。
お腹はぽこんと突き出ていて、いつも目を細めて笑っていた。
私たちが、祖父の家に行くといつもお小遣いをくれた。
私たちの家に遊びに来たときには、欲しいものを次々と買ってくれた。
私の妹は、無邪気に喜んでいたが、私はいつからかお小遣いをもらうのを躊躇するようになった。
私は、祖父のことが大好きだったから、ただ大好きなおじいちゃんの家に遊びに行くだけなのに、お金をたくさんもらうなんて嫌だと考えたらしい。
(今お金をくれるという人がいたら、誰からだってためらわずにもらうだろう。)

そのことを父に相談すると、こう言われた。
「おじいちゃんは、お小遣いあげるのも楽しみにしてるんだよ。孫の喜ぶ顔を見たいんだと思う。だから、嬉しそうな顔で受け取ってあげてほしい。」

私は、祖父がお金持ちではないことも知っていた。
でも、祖父は私たちにお小遣いを渡してくれるとき、「浜じっちは、お金持ちだから、いっぱいお小遣いあげるからな」と嬉しそうだった。
おじいちゃんの優しい嘘を私はうけとることにした。

祖父が優しかったのは、私たちにだけではない。
祖父の庭には、いつも10匹以上の野良猫がいて、祖父はそんな猫たちのためにエサをあげていた。
どこかに旅行すると、お店の人や旅館の人と仲良くなって帰ってきた。
お盆に祖父の家に行くと、あらゆるところからお中元が届いていた。
みんな祖父のファンたちからだ。

祖父は、楽器が得意だった。
よくみんなの前でハーモニカを吹いた。
ピアノやギターやアコーディオンも弾けた。
祖父は、歌うのが苦手だった。
話を聞くのはとても上手だったけれど、口数はそれほど多くなかった。

だから、楽器を演奏するのは、祖父の大切なコミュニケーションだった。
一度吹き始めると、次々と曲を演奏するから、最後の方はみんなお喋りしながら聴いていた。
でも、祖父が演奏を始めると、みんな笑顔になった。演奏が終わる頃には、演奏が始まる前よりも、みんな明るい話をしていた。

祖父のハーモニカの音が私は大好きだった。


祖父の奥さん、私にとっての祖母は、父が3歳のときに亡くなった。(祖父はその後に再婚している)

亡くなった原因は、心労や過労だったらしい。

祖母の妹たちに何度か会ったことがある。

会うたびに、はっとした顔で、私の顔を見つめていた。

「お姉さんに、そっくりだ」と言いながら、目に涙を溜めていた。
そして、祖母の妹たちは、私の祖父のことを本当にいい人だと言っていた。
祖母は、祖父の家に嫁いで亡くなったのに、何も恨んでいないのだろうかと少し不思議だった。

祖父は祖母が亡くなったあとも、再婚したあとも祖母のことを、祖母の家を大切にしていた。恨むことなどできないほどに、祖父は心を尽くしたのだろうと思う。


いつも優しい祖父だったが、一度だけ声を荒げていたことがある。
祖父の学生時代の頃の思い出を話してくれた時のことだ。
祖父は、とても勉強ができたらしい。
高校に上がるとき、学校から推薦されて、県内一の高校を受験した。そんな風に学校から推薦されることは、例外的なことだった。
けれども、そのときの試験はすべて体力試験だったという。
日本が戦争をしていた頃だった。
祖父は試験に落ちた。
「あんなに悔しいことはなかった」と、いつになく怖い顔で祖父は言った。
でも、もし受かっていたら祖父は学徒動員によって、戦死していたかもしれない。
けれども、祖父は悔しかったのだ。それは、何年経っても消えない悔しさで、それが青春時代に戦争があったということなのだと思う。


私が、中学試験に受かったときに誰よりも喜んでくれたのが祖父だった。
「さすが浜じっちの孫だ」と言われたとき、私は悔しそうな祖父の顔を思い出していた。


祖父が亡くなったのは、8年前。
2011年だ。
祖父は津波には飲み込まれなかったが、避難したおじの家から病院に搬送された。
おじが発電機の使い方を誤ったために、一酸化中毒になってしまったのだった。

でも、おじを恨むことはできない。あのときは誰もが生きることに必死で、普通の精神状態ではいられなかったから。
目の前で、故郷の街が飲み込まれるのを見ていたなら、なおさらだろう。

でも、私はもっと祖父に伝えたいことがあった。
照れたりしないで「おじいちゃん、大好き!」と伝えればよかった。

もっと祖父に会いにいけばよかった。

中学生、高校生になると、部活や勉強に忙しくて、あまり遊びに行かなくなった。
たくさんのご馳走が宅配便で届いても、電話をするのが気恥ずかしくてあまり長く話すこともなかった。

祖父が亡くなった後、私は大学に合格した。
祖父が行けなかった旧制二高のすぐそばにある大学だ。
誰よりも祖父に報告したかった。そうしたら「さすが浜じっちの孫だ」って、笑ってくれたかな。


今は祖父の家も、たくさんの猫たちがいた庭も、祖父と遊んだ公園も、すべて更地になっている。
変わっていないのは、海だけだ。
テレビの中で見た、恐ろしい真っ黒の海はそこにはなくて、懐かしい、凪いだ瑠璃色の海がある。


祖父は、夏になると、私たちを船に乗せてその海を駆け抜けた。
船でしか行けない浜辺に連れていってくれた。
とれたての魚をバーベキューで食べたこともあった。船を操縦する祖父はとてもかっこよかった。

亡くなってしばらく経っても、亡くなったということが受け入れられなかった。祖父に会うのは、年に数回だったから、ふとした瞬間にまだ生きているような気がしてしまうのだった。


ようやく最近になって、受け入れられるようになった気がする。
でも、これからも祖父のことを忘れることはない。


そういえば、何もかも波にさらわれた場所で、唯一、祖父の遺品としてハーモニカが見つかった。祖父の近所のひとが、祖父のものにちがいないと瓦礫の中から見つけてくれたのだった。

きっと祖父は、天国でもハーモニカを吹いているんじゃないかな。


私の大好きな浜じっちへ。

もっと夢に出てきていいよ。
今度はハーモニカも聴かせてね。