叶わないと知っていても、それでも伝えるという選択
大学三年生の五月、私はLINEの返事をどう書くか決めかねていた。
LINEの相手は、音楽サークルの同学年の男子。演劇部の公演に一緒に行かない?という、お誘いだった。演目は、恩田陸さんの『光の帝国』。以前私は彼に恩田陸さんの本を何冊か貸したことがあった。
『光の帝国』は、恩田陸さんの著作の中でも特に好きな小説だったし、超能力者がわんさか出てくるあの物語を、どうやって演劇にするんだろう、と単純に興味があったから、「うん、いいよー」と気軽に返してもよかった。
でも、そうできなかったのは、ちょうどその一週間前サークルの先輩と付き合いはじめたから。
恋人ができたのは、私の人生で初めてのことだった。
付き合ったばかり、まして初めてのお付き合いだったために、当時の私は恋愛における「普通」がよくわからない。
二人で出かけるのは、デートになるのか。
いや、お互いに恋愛感情を抱いていなければ、デートにはならないか。ただ演劇を観に行くだけだし。付き合っているからといって、男友達からの誘いをすべて断ったら、ただでさえ少ない男友達がいなくなってしまうのではないか。
と考えたところで、私はふと思いとどまる。
デートになる、ならない、という問題ではない。
付き合ったばかりの恋人を少しでも不安にさせるようなことはしたくない、と思った。
私も付き合うのがはじめてだったけれど、恋人も付き合うのは初めてだと話していた。いま何よりも大事にすべきは、恋人の気持ちだ。
私は、正直にLINEの返事を書く。
誘ってもらえるのはうれしいし、とても興味のある公演だということ。
でも、今回は行けないということ。
一週間前から、付き合いはじめた人がいて、今はその人と過ごす時間を大事にしたいということ。
浮かれた文章になってないだろうか。
告白してもいない相手からフラれるような、嫌な気持ちにさせてしまわないか。
と不安になりながら、言葉を選んだ。
数分後、LINEの返事がきた。
「おー、おめでとー!」
と私の初めての恋の成就を祝ってくれたあと、「それは、大事にしないといけないときだね、気遣わせてごめんね」と謝っていた。
「せっかく誘ってくれたのに、こちらこそ、ごめん」と返事をする。
LINEの文章が、いつもの彼らしい文章だったから、変に気まずくならずにすみそうだ、と安堵する。
しかし、それから2時間くらい経って、また彼からLINEが来た。
それは、彼からの告白のLINEだった。
彼は、ただ気持ちを伝えたかった、らしい。
ももちゃんと恋人さんのしあわせを心から祈っていると、最後には結んであった。
このとき、なんと返事をしたのか、あまりよく覚えていない。
ただ、ありがとうと伝えた記憶はある。
正直なところ、そのときは、彼の気持ちがよくわからなかった。
なんで?と思った。
こちらは好きな人と付き合いはじめたところなのに、君の勝ち目なんてゼロじゃない?と失礼ながら、思っていた。
LINEでいいの?とも思った。直接話さずに、この恋を終わらせちゃっていいの?と。
それに、言わなければ、なかったことにできるのに、という気もした。
当たって砕けることがわかっているのなら、これは恋じゃなかったんだって、思い込むほうが楽なんじゃない、と。
言わなければ、気まずくないし、これまでどおり同じサークルで楽しく過ごせるのに、と私は彼に少し怒ってすらいたかもしれない。
それから、サークルで彼と顔を合わせることがあっても、気まずくないフリをしようとしていることが、お互いにわかっていて気まずかった。
目が合うと、彼はたぶん少し無理しながら、笑っていた。
それから、数ヶ月後、サークルの最後の演奏会の直前、私はフルートの音が出なくなってしまった。息は入っているはずなのに、音が出ない。
練習不足、パートリーダーというプレッシャー、後輩との不仲、短期留学によるブランク、長期留学の準備、理由は挙げればきりがないほどあった。
演奏会の前日、みんなで気合を入れるために、ごはんを食べに行く予定だった。
私は、練習室に残ろうと思っていた。
音が出ない焦りもあったし、少し一人になりたかった。
音の出ない私に何か声をかけようとしながらも、なんと声をかけていいのかわからないようで、みんな私を避けて練習場から外に出ていった。
彼だけは、私に「ももちゃんは、行かないの?」と尋ねる。
行かないんじゃない、行けないんだよと思いながら、
「私はいいや、みんなで行ってきて」と答えると、
「そっか、わかった」と言って、彼も出ていった。
理由を聞かないでくれたのは、彼の優しさだったと思う。
終電の時間が迫っていたから、まだ音は出なかったけれど、練習場を出て、駅まで向かった。
駅に着いたとき、彼からLINEがくる。
「ももちゃん、まだ駅いる?」と。
「今、着いたところだよ」と返事をする。
「少し改札前で待ってて」と言われ、なんだろう、と思いながら待っていた。
駅前は、クリスマスが近かったから、クリスマスのムードに包まれていた。
茶色いコートを着た背の高い彼が向こうから走ってきて、これ、と差し出されたのはどう見てもケーキ屋さんの箱だ。
「ももちゃんだけ、ごはん食べに行けなかったからさ。」
と言って、私にケーキの箱を押しつけると、また来た道を走って帰っていった。
私の好きなケーキ屋さんの箱だった。
ケーキの箱を膝に抱えて、私は電車に揺られた。
私になんて優しくしなくていいのに。優しくしたって、何もいいことないのに。私に優しくする価値なんてない、と思った。
彼が、私のことをまだ好きなのかどうかよくわからない。
でも、彼が見返りを求めてこんなことをしてくれているわけではないことは、私にもわかった。
誠実な彼は、ずっと誠意を見せてくれていた。
彼の告白も、誠意の表れだったのだと思う。
私は、本当はうっすらと彼の気持ちに気づいていた。
だから、あのとき、恋人ができたから、一緒に演劇には行けないと断ることを選んだ。
彼のきもちを弄ぶようなことはしたくなかった。
それに、恋が形をとる前、彼のきもちに気づかなかったことにして蓋をすれば、彼が失うものはない、優しい彼は傷つかなくてすむ、それが、私の思う優しさだと思ったから。
彼は、この恋をなかったことにもできたけれど、そうしなかった。
それが、彼の誠実さだった。
私は彼の想いには応えられなかったけれど、彼は私のきもちに誠実さで応えてくれた。
なかったことにしたくないくらい、好きになってくれていたということを彼は示してくれたのだと思う。
ようやく、彼が想いを伝えてくれたことに、私は心から感謝できた。
彼が想いを伝えてくれたから、私は自分が愛されていたことを知ったのだ。
それが、私の思い込みではない、たしかな想いであるとわかったのだ。
叶わないとわかっていたのに、それでも告白してくれた君は最高にカッコいい。
家に帰って、私はひとり泣きながら、ケーキを食べた。
結局、翌日の定期演奏会で私は満足に音を出すことはできなかった。
物語のラストシーンのようにうまくはいかない。
だけど、私には私の物語があった。